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神道・神社史料集成(古代) 賀茂御祖神社
賀茂御祖神社二座(山城国愛宕郡)
『続日本紀』文武天皇2年3月辛巳(21日)条(698)禁二山背国賀茂祭日会衆騎射一、
『続日本紀』大宝2年4月庚子(3日)条(702)禁下祭二賀茂神一日、徒衆会集執レ仗騎射上、唯当国之人不レ在二禁限一、
『類聚三代格』1(祭并幣事) 和銅4年4月20日詔(711)詔、賀茂神祭日、自レ今以後、国司検察、常為二年事一、
和銅四年四月廿日
『続日本紀』和銅4年4月乙未(20日)条(711)詔、賀茂神祭日、自レ今以後、国司毎年親臨検察焉、
『続日本紀』神亀3年7月乙未(20日)条(726)遣レ使奉二幣帛於石成、葛木、住吉、賀茂等神社一、
『類聚三代格』1(祭并幣事) 天平10年4月22日勅(738)勅、比年以来、祭二賀茂神一之日、会二-集人馬一、悉皆禁断、自レ今以後、任レ意聴レ祭、但祭礼之庭勿レ令二闘乱一、
天平十年四月廿二日
『続日本紀』天平17年9月癸酉(19日)条(745)天皇不予、勅二平城恭仁留守一固二-守宮中一、悉追二孫王等一詣二難波宮一、遣レ使取二平城宮鈴印一、又令三京師畿内諸寺及諸名山浄処行二薬師悔過之法一、奉二-幣祈祷賀茂松尾等神社一、令二諸国所レ有鷹鵜並以放去一、度二三千八百人一出家、
『続日本紀』宝亀11年4月庚申(26日)条(780)授二百済王俊哲従五位上一、山背国愛宕郡人正六位上鴨禰宜真髪部津守等一十人賜二姓賀茂県主一、
『続日本紀』天応元年4月戊申(20日)条(781)令二賀茂神二社禰宜祝等始把一レ笏、以二従四位下多治比真人長野一為二伊勢守一、
『続日本紀』延暦3年6月壬子(13日)条(784)遣二参議近衛中将正四位上紀朝臣船守於賀茂大神社一奉レ幣、以レ告二遷都之由一焉、又今年調庸、并造レ宮工夫用度物、仰二-下諸国一、令レ進二於長岡宮一、
『続日本紀』延暦3年11月丁巳(20日)条(784)遣二近衛中将正四位上紀朝臣船守一、叙二賀茂上下二社従二位一、又遣二兵部大輔従五位上大中臣朝臣諸魚一、叙二松尾乙訓二神従五位下一、以遷都一也、
『続日本紀』延暦3年11月乙丑(28日)条(784)遣レ使修二-理賀茂上下二社及松尾乙訓社一、
『続日本紀』延暦4年11月庚子(8日)条(785)詔賀茂上下神社充二愛宕郡封各十戸一、
『日本紀略』延暦12年2月辛亥(2日)条(793)遣二参議治部卿壱志濃王等一、告二遷都於賀茂大神一、
『日本紀略』延暦13年10月丁卯(28日)条(794)鴨、松尾神加階、以二近郡一也、
『日本後紀』延暦15年11月辛丑(14日)条(796)始用二新銭一、奉二伊勢神宮、賀茂上下二社、松尾社、亦施七大寺及野寺一、賜二皇太子親王已下職事正六位已上、僧都律師等一、各有レ差、
『日本後紀』延暦24年4月己酉(10日)条(805)遣レ使奉二幣帛於賀茂神社一、
『日本後紀』大同元年3月丁亥(23日)条(806)行二大行天皇初七斎於京下諸寺一、此日、日赤無レ光、大井、比叡、小野、栗栖野等山共焼、烟灰四満、京中昼昏、上以為、所レ定山陵地、近二賀茂神一、疑是神社致二災火一乎、即決二卜筮一、果有二其祟一、上曰、初卜二山陵一、筮従亀不レ従也、今災異頻来、可レ不レ慎歟、即自祷祈、火災立滅、
『新抄格勅符抄』10(神事諸家封戸) 大同元年牒(806)神封部
合四千八百七十六戸
(略)
播磨明石垂水神 十戸、播万、鴨御祖神 廿戸、山城十戸、丹波十戸、天平神護元年九月七日、
(略)
『日本紀略』大同2年5月庚寅(3日)条(807)賀茂御祖神、別雷神並奉授正一位、
『日本紀略』大同4年5月庚午(25日)条(809)奉二-幣於松尾、鴨御祖、鴨別雷等社一、為レ止二霖雨一也、
『類聚国史』19(神祇19禰宜) 大同4年11月26日条(809)外従五位下鴨県主真蓑授二外従五位上一、従八位上鴨県主目代外従五位下並賀茂二社禰宜也、
『日本後紀』弘仁6年8月辛丑(3日)条(815)遣三レ使奉二-幣於伊勢大神宮并賀茂大神一、以二霖雨不一レ晴也、
『類聚国史』107(職官12斎院司) 弘仁9年正月乙巳(21日)条(818)始置二斎院司一、宮主一員、長官一員、次官一員、判官一員、主典二員、
『類聚三代格』4(加減諸司官員并廃置事) 弘仁9年5月9日官符(818)太政官符
定二新置斎院司官位職員一事
長官一人従五位下官 次官一員従六位上官
判官一員従七位上官 主典二員従八位下官
右被二中納言兼左近衛大将従三位行春宮大夫陸奥出羽按察使藤原朝臣冬嗣宣一偁、奉 レ勅、宜二依レ件定一、
弘仁九年五月九日
『日本紀略』弘仁9年5月乙巳(22日)条(818)始置二斎院司宮主一員、長官一員、次官一員、判官一員、主典二員一、
『類聚三代格』4(加減諸司官員并廃置事) 弘仁9年5月22日官符(818)太政官符
新置二斎院司宮主一員一事准二従八位下官一
右被二中納言兼左近衛大将従三位行春宮大夫陸奥出羽按察使藤原朝臣冬嗣宣一偁、奉 レ勅、宜二依レ件定一、
弘仁九年五月廿二日
『類聚国史』107(職官12斎院司) 弘仁9年7月庚寅(8日)条(818)定二斎院史生二員一、
『類聚国史』5(神祇5賀茂大神) 弘仁10年3月甲午(16日)条(819)勅、山城国愛宕郡賀茂御祖并別雷二神之祭宜レ准二中祀一、
『類聚国史』8(神祇8大嘗会) 弘仁14年11月癸亥(13日)条(823)右大臣正二位藤原朝臣冬嗣、大納言従二位藤原緒嗣等、於二清涼殿一口奏言、聖王相続、大嘗頻御、天下騒動、人民多レ弊、然神態不レ得レ已、須二此度大嘗会停レ飾省一レ弊者、天皇勅答、元不レ好レ飾、唯事二神態一耳、即大臣奏云、請令三大納言緒嗣検二-校其事一者、於レ是、緒嗣請二中納言良岑朝臣安世、参議伴宿禰国道一、為二検校一、便以二治部省庁一、為二行事所一、唯斎院依二卜筮一定レ之、以二宮内省一、為二悠紀所一、以二中務省一、為二主基所一、作二借屋一用之、但斎場依レ例定二北野一、一切不レ用二玩好金銀刻鏤等之飾一、唯標者、以レ榊造之、用二橘并木綿等一飾之、即書二悠紀主基字一、以着二樹末一、凡以二清素一、供二神態一耳、所レ用正税、悠紀主基各十万、後依二国司所一レ請、各加二五万一、以従二省約一也、又運二悠紀主基両国雑物一担夫、各給二路粮一、斯以二頻有二大嘗会一、国民凋弊者也、
『類聚三代格』4(廃置諸司事) 天長元年12月29日官符(824)太政官符
置二斎院司一事
右太政官去弘仁十四年六月四日下二式部省一符偁、件司宜レ従二停止一者、今被二右大臣宣一偁、奉 レ勅、宜下准去弘仁九年例一置上レ之、
天長元年十二月廿九日
『類聚国史』107(職官12斎院司) 天長3年7月辛卯(26日)条(826)摂津国垂水庄公田一町八段、賜二斎院司一、
『類聚国史』5(神祇5賀茂斎院) 天長8年12月壬申(8日)条(831)替二賀茂斎内親王一、其辞曰、天皇我御命爾坐、掛畏皇大神爾申給波久、皇大神乃阿礼乎止売爾進礼留内親王、齢毛老、身乃安美毛有爾依弖、令二退出一留代爾、時子女王乎卜食定弖進状乎、参議左大弁正四位下藤原朝臣愛発乎、差使弖申給波久止申、并奉レ幣、
『類聚国史』5(神祇5賀茂斎院) 天長8年12月癸酉(9日)条(831)為二前賀茂斎内親王相替一、祓二于鴨川一、
『続日本後紀』天長10年3月癸丑(26日)条(833)以二久子内親王一為二伊勢斎宮一、高子内親王為二賀茂斎院一、
『続日本後紀』天長10年4月丁卯(10日)条(833)遣二参議従四位下右大弁藤原朝臣常嗣一、奉二-幣於賀茂大神一、告以下高子内親王定二斎院一之状上、
『続日本後紀』天長10年6月癸亥(8日)条(833)公卿率二衆僧一、共侍二殿上一、勅引二右近衛大将従三位橘朝臣氏公并前大宰大弐従四位上朝野宿禰鹿取於御床下一、拝為二参議一、是日、為二聖体有一レ間、使神祇伯従四位下大中臣朝臣淵魚、奉二-幣於賀茂大神一、又令二天下諸国一、修二-理寺塔破壊者及神社一、勅曰、如レ聞、諸国疫癘、夭亡者衆、自非二修善一、何以攘災、宜レ令二諸国一、各請二練行僧、大国廿人、上国十七人、中国十四人、下国十人一、三ケ日内、昼転二金剛般若経一、夜修二薬師悔過一、其布施者、三宝穀十斛、僧三斛、以二正税一充行、俾レ致二精進一、
『続日本後紀』天長10年閏7月壬午(28日)条(833)霖雨渉レ旬不レ息、仍令下大和山城二国介以上親奉二-幣於丹生川上雨師神、松尾、賀茂上下及貴布禰社一、以祈上レ霽焉、
『続日本後紀』天長10年12月癸未朔条(833)道場一処在二山城国愛宕郡賀茂社以東一許里一、本号二岡本堂一、是神戸百姓奉二-為賀茂大神一所二建立一也、天長年中検非違使尽従二毀廃一、至レ是、勅曰、仏力神威、相須尚矣、今尋二本意一、事縁二神分一、宜三彼堂宇特聴二改建一、
『続日本後紀』承和2年4月甲午(20日)条(835)高子内親王禊二于賀茂川一、始入二斎院一、
『続日本後紀』承和2年4月己亥(25日)条(835)授二正六位上文室朝臣茂道従五位下一、外従五位下賀茂県主広友外従五位上、正六位上賀茂県主広雄外従五位下、
『続日本後紀』承和3年2月丙子(7日)条(836)遣唐使奉二幣帛賀茂大神社一、
『続日本後紀』承和3年4月乙酉(17日)条(836)天皇御二紫宸殿一、閲二-覧賀茂祭使等鞍馬調飾并従者容儀一、賜二使等祿一、以二播磨守従四位下橘朝臣永名一権為二内蔵頭一、令レ供二祭使一、
『続日本後紀』承和4年10月丙辰(26日)条(837)聴三斎院司私養二鷹二連一、
『続日本後紀』承和5年2月癸卯(15日)条(838)勅、斎院雑使四人、宜下准二二宮并淳和院舎人等一、与中之公験上、嵯峨院勘籍廿人亦宜レ准レ此、
『続日本後紀』承和5年8月癸丑(28日)条(838)降雨殊切、奉二-幣賀茂上下、松尾、乙訓、垂水、住吉等名神一、以祈レ霽焉、
『続日本後紀』承和6年正月甲子(11日)条(839)以二従五位下藤原朝臣秋常一為二少納言一、正五位下藤原朝臣嗣宗為二右中弁一、従四位下百済王慶仲為二民部大輔一、従五位下藤原朝臣浜雄為二少輔一、従四位上藤原朝臣雄敏為二兵部大輔一、従四位上滋野朝臣貞主為二兼大和守一、弾正大弼如レ故、従五位下小野朝臣興道為二左衛門佐一、従四位下藤原朝臣長良為二左馬頭一、正五位下高道宿禰鯛釣為二摂津守一、従四位上大枝朝臣総成為二伊□守一、従五位下惟良宿禰貞道為二兼伊勢介一、図書頭如レ故、従五位下在原朝臣仲平為二駿河守一、従五位下藤原朝臣友永為レ介、従五位下藤原朝臣伊勢雄為二甲斐守一、従五位上藤原朝臣貞成為二相摸権守一、外従五位下出雲朝臣全嗣為二武蔵介一、従四位上源朝臣明為二兼近江守一、大学頭如レ故、従五位上安倍朝臣浜主為レ介、従五位下出雲朝臣岑嗣為二美濃権介一、権中納言従三位藤原朝臣良房為二陸奥出羽按察使一、左兵衛督如レ故、従五位下紀朝臣松永為二若狭守一、従四位上源朝臣寛為二加賀守一、従五位下藤原朝臣良方為二介、従五位下真福良王為二能登守一、従五位下丹墀真人氏永為二越後守一、従四位下正躬王為二丹波守一、正五位下坂上大宿禰鷹主為二但馬守一、外従五位下志紀宿禰永成為二伯耆介一、従五位下藤原朝臣貞根為二出雲守一、従五位下朝野宿禰貞吉為二美作介一 云々、従五位下菅野朝臣永岑為二兼豊前守一、主殿頭斎院長官如レ故、
『続日本後紀』承和6年4月戊辰(17日)条(839)勅、頒二幣於松尾、賀茂上下、貴布禰、丹生川上雨師、住吉諸社一、令レ祈二澍雨一、又限二七箇日一、令レ読二仁王経於十五大寺一、兼通二城外崇山有験之寺一、同俾二転経一、並以二自レ春迄レ今不一レ雨也、
『続日本後紀』承和6年5月辛卯(11日)条(839)始レ自二今日一、限二三箇日一、為二賀茂大神一、転二-読金剛般若経一千巻一、
『続日本後紀』承和7年4月庚午(29日)条(840)勅、頃者、炎旱未レ幾、嘉苗殆枯、宜下奉二-幣松尾、賀茂、乙訓、貴布禰、丹生川上雨師、垂水等社一、祈二甘雨一防中風災上焉、
『続日本後紀』承和7年6月己未(15日)条(840)奉二幣帛於伊勢大神宮及賀茂上下、松尾等社一、祈二霈沢一、又令二内外諸国一奉二-幣神祇一、祈二-請甘雨一、
『続日本後紀』承和8年4月己巳(29日)条(841)勅、頃者、時雨不レ降、農夫輟レ耕、如レ非二祷祈一、恐レ傷二嘉苗一、宜下奉二-幣松尾、賀茂、乙訓、貴布禰、垂水、住吉、雨師神一、令レ祈二甘雨一、兼防中風災上、
『類聚三代格』4(加減諸司官員并廃置事) 承和8年12月22日官符(841)太政官符
応レ補二斎院司舎人遭レ喪之替一事
右得二彼司解一偁、依二太政官去承和五年二月廿二日符旨一、充二-補舎人四人、而遭レ喪之徒、毎レ年不レ絶、至二于神事一、無レ人二差使一、凡司家之風尤忌二穢悪一、重服之輩何得二出仕一、仍移二-送遭レ喪之由一、而式部省固称レ無レ例、曽不レ補レ替、望請、不レ待レ至レ考、随レ闕被レ補、謹請二 官裁一者、右大臣宣、奉 レ勅、依レ請、
承和八年十二月廿二日
『続日本後紀』承和9年3月丁巳(22日)条(842)遣レ使奉二-幣松尾、鴨御祖、鴨別雷、乙訓等名神一、祈レ雨也、
『続日本後紀』承和10年11月丙申(12日)条(843)遣二参議左大弁従四位上正躬王一奉二幣帛於賀茂神社一、為レ令二国家昌泰一也、
『続日本後紀』承和11年8月癸卯(23日)条(844)丹波国多紀郡人斎院主典従七位上常澄宿禰成主改二本居一貫二-附左京一条二坊一、
『続日本後紀』承和11年11月壬子(4日)条(844)鴨上下大神宮禰宜外従五位下賀茂県主広友等款云、所謂鴨川、経二二神社一指レ南流出、而王臣家人及百姓等、取二鹿彘於北山一、便洗二水上一、其末流来触二神社一、因レ茲、汚穢之祟屡出二御卜一、雖レ加二禁制一、曽無二順慎一者、勅、宜下仰二当国一迄二于河源一、厳加中禁断上、若違犯者、禁二其身一申送、国郡司并禰宜祝等許二-容之一者、必処二重科一、
『類聚三代格』1(神社事) 承和11年11月4日官符(844)太政官符
応レ禁三-制汚二-穢鴨上下大神宮辺河一事
右得二彼神宮禰宜外従五位下賀茂県主広友等解一偁、鴨川之流経二二神宮一、但欲二清潔一之、豈敢汚穢、而遊猟之徒就二屠割事一、濫穢二上流一、経二-触神社一、因レ茲汚穢之祟屡出二御卜一、雖レ加二禁制一曽不二忌避一、仍申送者、大納言正三位兼行右近衛大将民部卿陸奥出羽按察使藤原朝臣良房宣、奉 レ勅、神明攸レ祟不レ可レ不レ慎、宜下仰二当国一俾中禁断上之、若違レ制犯者禁二其身一申上、容隠不レ申、国郡司并禰宜祝等必処二重科一、不二曽寛宥一、
承和十一年十一月四日
『類聚三代格』1(神社事) 承和11年12月20日官符(844)太政官符
応レ令二神戸百姓一護二鴨上下大神宮辺川原并野一事
四至
御祖社 東限二寺田一、南限二故参議左近衛大将大中臣朝臣諸魚宅北路末一、西限二百姓宅地并公田一、北限二槐材下里南畔并寺田一、
別雷社 東限二路并百姓宅地一、南限二道并百姓宅地公田一、西限二鴫川一、北限二梅原山一、
右得二山城国解一偁、依二太政官去十一月四日符一、仰二愛宕郡司一令レ禁二護件社辺河一、而郡司解偁、郡中徭丁数少無レ人二差充一、望請、以下在二比郡一神戸百姓上、分レ番令二禁守一、若致二汚穢一永出二神戸一、以二公戸民一相替補入者、国加二覆審一、所レ陳有レ実、謹請二 官裁一者、左大臣宣、依レ請、
承和十一年十二月廿日
『続日本後紀』承和14年10月戊午(26日)条(847)二品有智子内親王薨、遺言薄葬、兼不レ受二葬使一、内親王者、 先太上天皇幸姫王氏所二誕育一也、頗渉二史漢一、兼善属レ文、元為二賀茂斎院一、弘仁十四年春二月 天皇幸二斎院一花宴、俾二文人一賦二春日山庄詩一、各探勒レ韻、公主二-探得塘光行蒼一、即瀝レ筆曰、寂々幽庄水樹裏、仙輿一降一池塘、栖レ林孤鳥識二春沢一、隠レ澗寒花見二日光一、泉声近報初雷響、山色高晴暮雨行、従レ此更知恩顧渥、生涯何以答二穹蒼一、天皇歎レ之、授二三品一、于時年十七、是日、 天皇書レ懐、賜二公主一曰、忝以二文章一著二邦家一、莫下将二栄楽一負中煙霞上、即今永抱幽貞意、無レ事終須レ遣二歳華一、尋賜下召二文人一料封百戸上、天長十年叙二二品一、性貞潔、居二于嵯峨西庄一、薨時春秋四十一、
『続日本後紀』承和14年12月乙巳(14日)条(847)従五位下紀朝臣全吉為二主殿頭一、従五位上百済王慶世為二斎院長官一、
『続日本後紀』承和15年2月辛亥(21日)条(848)正一位勲一等賀茂御祖大社禰宜外従五位下鴨県主広雄等款云、去天平勝宝二年十二月十四日、奉レ充二御戸代田一町一、自レ爾以降、未レ被二奉加一、因レ茲年中用途乏少、請准二別雷社一、加二増御戸代田一町一、勅許レ之、
『続日本後紀』嘉祥元年6月庚子(13日)条(848)大臣就二八省院一、奉二幣帛於伊勢大神宮及賀茂上下、松尾社一、並告二依レ瑞改一レ元、兼令レ祈レ防二水殄一也、
『続日本後紀』嘉祥元年7月己未(2日)条(848)奉二幣帛於松尾、賀茂上下社、貴布禰、雨師社一、以祈二甘雨一、
『続日本後紀』嘉祥3年2月甲寅(5日)条(850)御病殊劇、召二皇太子及諸大臣於床下一令レ受二遺制一、遣二四衛府及内竪等一、或齎二御衣一、或齎二綿布一、分二-散四方一、誦二-経諸寺一、左右馬寮御馬六疋奉二鴨上下松尾等名神一、放二諸鷹犬及籠鳥一、唯留二鸚鵡一、又下二-知近江国一、禁二諸殺生一、縁三梵釈寺修二延命法一故也、請二僧綱十禅師及有験者於御簾外一、令レ奉二加持一、以二絹十二疋一為二続命幡一、懸二十二大寺刹一、左右馬寮各調二走馬十疋一、候二於八省東廊下一、
『文徳天皇実録』嘉祥3年7月甲申(9日)条(850)皇女晏子内親王為二伊勢斎一、恵子内親王為二賀茂斎一、大二-祓於建礼門前一、以レ命二両斎内親王一、
『文徳天皇実録』嘉祥3年8月丁巳(12日)条(850)遣二右中弁従四位下藤原朝臣氏宗一向二賀茂社一、中宮亮正五位上藤原朝臣良仁向二松尾社一、並告以二即位之由一、
『文徳天皇実録』嘉祥3年9月戊子(14日)条(850)遣二参議左兵衛督正四位下藤原朝臣助一、向二賀茂大神社一、策命曰、天皇我詔旨止、掛畏支大神乃広前爾申賜倍止申久、先先爾祷申賜倍留御馬并神財乎九月爾潔備天奉出賜波々可吉止卜申利、故是以神財乎設備天潔捧天奉二出須、但御馬波馬寮内爾有穢爾依弖、此度波不奉出、来年乃四月乃祭爾設備天奉出无、此状乎聞食天、天皇朝庭乎堅磐爾常磐爾、天下平安爾護賜比矜賜倍止、恐見恐見毛申賜波久止申、
『文徳天皇実録』嘉祥3年9月庚子(26日)条(850)遣二侍従従五位上島江王一向二伊勢大神宮一、神祇大副従五位下中臣朝臣逸志向二賀茂大神社一、神祇権少祐正六位上占部業基向二尾張大神社一、告以二賀瑞之由一、大二-祓於建礼門前一、以レ遣レ使也、又下二-知五畿七道諸国一、班二幣名神一、同告二賀端之由一、
『文徳天皇実録』仁寿元年4月辛酉(19日)条(851)遣二使者一向二賀茂大神社一奉祭、但斎内親王未レ盈二斎限一、故不レ得レ侍レ祭、
『文徳天皇実録』仁寿元年6月甲辰(3日)条(851)遣二使者一向二伊勢、賀茂、松尾、乙訓等神社一、以レ祈レ霽、策文曰、天皇我詔旨止、掛畏支大神乃広前爾申久、近来雨降己止渉レ旬天、百姓乃農業流損奴倍之、掛畏支大神乃厚助爾依天、此災波可レ止之止所念行天奈毛、去五月廿七日爾御馬進牟、雨止女賜止祷申賜比之、而卜定多留日促爾之天、御馬取爾遣己止不レ堪、後日爾必進牟、故是以差レ使天、太幣乎令二捧持一奉出須、此状乎聞食天、降雨忽晴天五穀不レ損、秋稼豊登之女、天皇朝庭乎、常磐爾堅磐爾、天下平安爾、護幸倍助賜比矜賜倍止、恐美恐美毛申賜久止申、又別辞申、此雨乃不レ止左留由縁乎卜求礼波、春祭爾供奉世留使等中爾有二穢事一介利、因レ茲、大神不志己理賜倍利止卜申世利、而祭使波御卜合倍留人乎令二供奉一止奈毛、所念行世留、此事乎聞食天奈毛懼畏利御坐須、大神神那我良聞食天、今毛弥益爾安爾護助賜倍止、恐美恐美毛申賜久止申、
『文徳天皇実録』仁寿2年4月乙卯(19日)条(852)賀茂斎内親王禊二於河浜一、是日始入二紫野斎院一、
『文徳天皇実録』仁寿2年4月辛酉(25日)条(852)修二賀茂祭一如二常儀一、
『文徳天皇実録』仁寿2年7月乙亥(10日)条(852)遣二使者一、向二賀茂、松尾、稲荷、貴布禰等名神一、奉レ幣祈レ雨、即日得二甘澍一、
『文徳天皇実録』仁寿2年閏8月壬辰(29日)条(852)遣二左近衛少将従五位上藤原朝臣仲統、右近衛少将従五位上在原朝臣行平等一、向二賀茂松尾大神等社一奉レ幣、請以レ止レ雨、
『文徳天皇実録』仁寿3年2月甲戌(14日)条(853)治部少輔兼斎院長官従五位下藤原朝臣関雄卒、関雄者、刑部卿従三位真夏第五子也、天長二年春奉二文章生試一及第、関雄少習レ属レ文、性好二閑退一、常在二東山旧居一、耽二愛林泉一、時人呼為二東山進士一、承和元年秋、 淳和太上天皇嘉二其為一レ人、特詔徴レ之、関雄辞而不レ獲、遂応二詔命一、 天皇賜以二優礼一、従二-事左右一、明年拝二勘解由判官一、劇務繁併、既非二其好一、数月遷二少判事一、関雄尤好二皷琴一、 天皇賜二其秘譜一、由レ是雅調稍妙、関雄亦能二草書一、南池雲林両院壁、皆令二関雄一書レ之也、六年授二従五位下一、累遷嘉祥四年為二治部少輔一、仁寿二年兼二斎院長官一、以レ病辞退、遂不レ被レ免、卒時年卌九、
『文徳天皇実録』仁寿3年4月丁卯(7日)条(853)従五位下藤原朝臣岑主為二斎院長官一、
『文徳天皇実録』仁寿3年4月乙酉(25日)条(853)以二頗皰瘡染行、人民疫死一故、停二賀茂祭一、遣二侍従従五位上島江王、神祇大祐従七位上忌部宿禰高善等一向二社下一、申二謝事由一、但山城国司斎供如レ常、
『文徳天皇実録』仁寿3年5月己亥(10日)条(853)従五位下藤原朝臣野主為二斎院長官一、
『文徳天皇実録』仁寿3年7月庚寅朔条(853)参議従四位上藤原朝臣氏宗為二近江守一、左大弁右近衛中将如レ故、従五位下藤原朝臣良縄為二侍従一、内蔵助如レ故、大枝朝臣音人為二大内記一、民部少輔如レ故、平朝臣実雄為二治部少輔一、藤原朝臣岑主為二大蔵少輔一、斎院長官如レ故、坂上大宿禰当宗為二掃部頭一、従五位下春日臣雄継為二越中権守一、大学博士如レ故、吉備朝臣全継為二美作介一、従四位上源朝臣多為二備中守一、宮内卿如レ故、従四位上源朝臣冷為二讃岐守一、
『文徳天皇実録』斉衡元年2月辛未(16日)条(854)従五位下百済王教凝為二侍従一、安倍朝臣有道為二大主鈴一、従五位上橘朝臣枝主為二図書頭一、従五位下和気朝臣斉之為二治部少輔一、従五位上島江王為二諸陵頭一、従五位下橘朝臣常蔭為二大判事一、伴宿禰春世為二大蔵少輔一、従五位上良岑朝臣長松為二宮内大輔一、従五位下安倍朝臣安正為二弾正少弼一、外従五位下津宿禰良友為二「左京」左京亮一、従五位下橘朝臣高成為二右京亮一、斎部宿禰木上為二勘解由次官一、橘朝臣春成為二斎院長官一、伴宿禰河男為二鋳銭長官一、周防守如レ故、藤原朝臣長基為二石見守一、伴宿禰宗為二備後介一、大判事如レ故、
『文徳天皇実録』斉衡元年4月癸酉(19日)条(854)以レ有二穢事一、停二賀茂祭一、但山城国司斎供如レ常、
『文徳天皇実録』斉衡3年5月庚戌(9日)条(856)請二僧二百五十人於大極殿、及冷然院、賀茂、松尾神社一、分読二大般若経一、限二三日一訖、攘二災疫一也、
『文徳天皇実録』斉衡3年9月壬戌(22日)条(856)請二僧於賀茂、松尾大神社一、読二金剛般若経一、限二三日一訖、
『文徳天皇実録』天安元年2月丙申(28日)条(857)廃二鴨斎内親王恵子一、更立二無品述子内親王一為二斎内親王一、遣二右大臣正三位藤原朝臣良相於神社一告二事由一、其事秘者、世無レ知レ之也、
『文徳天皇実録』天安元年3月己亥(2日)条(857)従五位下紀朝臣冬雄為二斎院長官一、備前権掾如レ故、安倍朝臣氏主為二参河守一、斎部宿禰木上為二越中介一、
『文徳天皇実録』天安元年4月乙酉(18日)条(857)鴨祭如レ常也、
『文徳天皇実録』天安元年5月己亥(3日)条(857)請二僧百五十人於賀茂上下松尾大神社一、令レ転二-読金剛般若経一、限以二三ケ日一、
『日本三代実録』貞観元年4月24日己酉条(859)賀茂神祭、停レ遣二朝使一、縁レ有レ穢也、
『日本三代実録』貞観元年7月14日丁卯条(859)遣二使諸社一、奉二神宝幣帛一、参議正四位下行左大弁兼左衛門督美作守藤原朝臣氏宗為二賀茂御祖別雷両社使一、散位従五位下正峯王為二松尾社使一、正五位下守右中弁兼行式部少輔大枝朝臣音人為二平野社使一、従五位下行主殿権助藤原朝臣水谷為二大原野社使一、右兵衛佐従五位下源朝臣至為二乙訓社使一、従五位下守右兵庫頭藤原朝臣四時為二大神社使一、掃部頭従五位上藤原朝臣貞敏為二石上社使一、従四位下行兵部大輔藤原朝臣仲統為二春日社使一、従五位下守図書頭当麻真人清雄為二当麻社使一、中務少輔従五位下源朝臣包為二住吉社使一、散位従五位下丹墀真人縄主為二丹墀社使一、少納言兼侍従従五位下良峯朝臣経世為二杜本社使一、神祇大祐正六位上大中臣朝臣豊雄為二気比気多両社使一、散位従五位下紀朝臣宗守為二日前国懸両社使一、
『類聚三代格』2(年分度者事) 貞観元年8月28日官符(859)太政官符
応レ試二-度延暦寺年分度者二人一事
一人奉二-為賀茂名神一可レ令レ読二大安楽経一部卅八巻一
一人奉二-為春日名神一可レ令レ読二維摩詰所説経一部三巻一
並可レ加二-試法花金光明経二部一、
右十禅師伝燈大法師位恵亮表偁、恵亮以下去嘉祥三年八月五日 陛下御二東宮一之日上、上二-啓所願一已畢、頃年殊垂二恩感一、毎二降誕日一、臨時得度于レ今八箇年、伏冀、 天慈幸降二恩勅一不レ改二素願一、毎レ年三月下旬於二比叡山西塔宝幢院一将二試度一之、然後准二太政官弘仁十四年符一令レ受二大戒一之後、依二先師式一十二箇年不レ出二山門一、一日不レ闕長講二件経一、利二-益名神一、奉レ護二 聖朝一、恵亮等師資相承修二此仏業一、但件人等得業以後僧中諸事、准二天台真言等宗一一同用レ之者、右大臣宣、奉 レ勅、宜レ依二来表一、
貞観元年八月廿八日
『日本三代実録』貞観元年9月4日丙辰条(859)分レ頭遣レ使、奉二-幣賀茂御祖、別雷、松尾、貴布禰、乙訓、稲荷等神社一、祈レ止二霖雨一也、
『日本三代実録』貞観元年10月5日丁亥条(859)卜二-定恬子内親王一為二伊勢斎一、儀子内親王為二賀茂斎一、
『日本三代実録』貞観元年10月12日甲午条(859)大二-祓於朱雀門前一、以レ定二伊勢賀茂斎内親王一也、
『日本三代実録』貞観元年12月25日丙午条(859)伊勢斎恬子内親王二於鴨水辺六条坊門末一修レ禊、賀茂斎儀子内親王、於二同水辺待賢門末一修レ禊、並入二初斎院一、
『日本三代実録』貞観2年4月15日乙未条(860)六府警固、縁二賀茂祭一也、
『日本三代実録』貞観2年4月17日丁酉条(860)賀茂祭如レ常、斎内親王未レ入二野宮一、故不レ向レ社、
『日本三代実録』貞観2年4月18日戊戌条(860)諸衛解レ厳、
『日本三代実録』貞観3年2月16日庚申条(861)従五位下行主殿権助藤原朝臣水谷為二斎院長官一、権助如レ故、
『日本三代実録』貞観3年2月25日己巳条(861)斎院長官従五位下兼行主殿権助藤原朝臣水谷為二侍従一、余官如レ故、
『日本三代実録』貞観3年4月12日丙辰条(861)賀茂斎内親王臨二鴨水一修レ禊、是日、便入二紫野斎院一、 勅二大納言正三位兼行右近衛大将源朝臣定一監二禊事一、
『日本三代実録』貞観3年4月16日庚申条(861)諸衛警固、縁二賀茂祭一也、
『日本三代実録』貞観3年4月17日辛酉条(861)修二賀茂祭一、先レ是、内蔵寮有二人死穢一、仍勅使自二縫殿寮一進発、
『日本三代実録』貞観3年4月18日壬戌条(861)諸衛解レ厳、
『日本三代実録』貞観4年4月22日庚申条(862)諸衛警固、縁二賀茂祭一也、
『日本三代実録』貞観4年4月23日辛酉条(862)賀茂祭如レ常、
『日本三代実録』貞観4年4月24日壬戌条(862)諸衛解レ厳、
『日本三代実録』貞観5年4月13日乙巳条(863)賀茂斎内親王依レ例修二禊事一、弁史皆染二弁官犬死穢一、 勅遣二従五位上行大外記滋野朝臣安成一、奉レ従二行事一、
『日本三代実録』貞観5年4月15日丁未条(863)賀茂上社禰宜正六位上賀茂県主真当、下社禰宜従六位上鴨県主時主等並授二外従五位下一、
『日本三代実録』貞観5年4月16日戊申条(863)諸衛警固、縁二賀茂祭一也、
『日本三代実録』貞観5年4月17日己酉条(863)賀茂祭如レ常、
『日本三代実録』貞観5年4月18日庚戌条(863)諸衛解レ厳、
『日本三代実録』貞観5年8月22日壬午条(863)讃岐国多度郡人斎院権判官正六位上刑部造真鯨改二本居一貫二左京職一、
『日本三代実録』貞観5年11月20日己酉条(863)左京人斎院判官正八位上上毛野公藤野、内教坊頭従七位下上毛野公赤子等同族男女七人、賜二姓朝臣一、豊城入彦命之苗裔也、
『日本三代実録』貞観6年正月7日甲午条(864)侍従兼斎院長官藤原朝臣水谷、右近衛少将兼伊予介藤原朝臣山蔭、散位源朝臣好等並従五位上、
『日本三代実録』貞観6年4月16日壬申条(864)諸衛警固、縁二明日賀茂祭一也、
『日本三代実録』貞観6年4月17日癸酉条(864)賀茂祭如レ常、
『日本三代実録』貞観6年4月18日甲戌条(864)諸衛解レ厳、
『日本三代実録』貞観7年4月17日丁卯条(865)勅奉レ充二諸明神神田一、松尾神五段、賀茂御祖神五段、別雷神五段、稲荷神三段、平野神五段、大原野神五段、並以二山城国愛宕、紀伊、乙訓、葛野等郡得度除帳田一充レ之、
『日本三代実録』貞観7年4月22日壬申条(865)諸衛警固、縁二賀茂祭一也、
『日本三代実録』貞観7年4月23日癸酉条(865)賀茂祭如二常儀一、
『日本三代実録』貞観7年4月24日甲戌条(865)諸衛解レ厳、
『日本三代実録』貞観8年正月23日庚子条(866)従五位下行太皇太后宮少進兼斎院次官藤原朝臣忠主為二斎院長官一、従五位上行侍従兼斎院長官藤原朝臣水谷為二安芸権守一、侍従如レ故、
『類聚三代格』2(年分度者事) 貞観8年閏3月16日官符(866)太政官符
応レ令レ受二-戒年分度者一事
右得二延暦寺去年四月十一日牒一偁、左弁官今月九日宣旨偁、太政官去三月十五日下二治部省一符偁、検二旧例一年分度者経二二箇年一、臨時度者経二三箇年一、令レ練二沙弥之行一、兼試二法花最勝威儀三部経一、然後令二受戒一者、寺宜二依レ件行一レ之者、今案二彼格一最有二理致一、弘レ道之輩誰不二遵行一、但此寺年分者惣八人也、就レ中六人、是 先皇御願、国忌之日同令二得度一、今二人即 今帝御願、臨二降誕之日一奉二-為賀茂春日両処名神一亦令二得度一、非二唯未レ度以前練二沙弥行一、亦乃受戒以後不レ出二山門一十二箇年、慎二-守公制一勤二-修三昧一誓二-護国家一、皆是随二先師遺誡一也、先師之戒既異二諸宗一、所有行業不レ同二他類一、得業以後何更経レ年、若両箇年不レ聴二受戒一、恐於二御願一致二闕断一歟、凡年々試度年々受戒、謂二之年分一、若不レ爾者亦恐有レ所レ闕歟、伏冀、不レ違二先師之戒一、当年受戒、則閉二山門一、誓二-護国家一、其沙弥威儀経、一准二官符一、試業之日同加二試練一、又雖二臨時度者一不三必経二三箇年一、何者人有二利鈍一学有二優劣一、況有二入道之前後練業之浅深一乎、或幼年従レ師修学年深、或長後出レ俗未レ染二法流一、或入道如レ昨才学優長、或出家経レ年身才猶疎、得失如レ斯、何得二一准一、望請、才与レ年長、行将レ齢積之輩、准二官符旨一先勘二度縁一、三月之内試二三部経一、若無二擁滞一者聴二其受戒一、縦雖レ少レ年而廿歳以上才行兼備堪為僧者、方加二試練一同聴二登壇一、然則玉石同分、修学無レ怠、謹請二処分一者、右大臣宣、奉 レ勅、年分度者依レ請、自余一同二去年三月十五日格一、
『日本三代実録』貞観8年4月22日丙申条(866)諸衛警固、縁二賀茂祭一也、
『日本三代実録』貞観8年4月23日丁酉条(866)賀茂祭朝使并斎内親王不レ向二於社一、山城国随レ例奉祭、
『日本三代実録』貞観8年4月24日戊戌条(866)諸衛解レ厳、
『日本三代実録』貞観8年6月16日己丑条(866)無品高子内親王薨、喪家固辞、故不レ任二縁葬之司二、輟レ朝三日、内親王者、仁明天皇之皇女、母百済王氏、従五位上教俊之女也、承和初、卜為二賀茂斎一、仁明天皇崩後停レ斎帰レ第焉、
『日本三代実録』貞観8年7月14日丙辰条(866)班二-幣賀茂御祖別雷、松尾、丹生川上、稲荷、水主、貴布禰神一、賽二前日祷一、兼祈二嘉澍一也、告文云、天皇我詔旨止、掛畏岐松尾大神乃広前爾恐美恐美毛申給久止申久、不慮之外爾天下爾有二旱災一天、農稼枯損奴、因レ茲、掛畏岐大神乎奉レ憑天、大幣帛奉出給牟止祈申岐、而爾祈申志毛験久、甘雨令レ零米賜へ利、因歓奈我良、散位従五位下大中臣朝臣国雄乎差レ使天、大幣帛乎令二捧持一天奉出賜布、此状遠平久聞食天、今毛今毛風雨調和米給比、五豊登米賜比、天下饒足米賜比、天皇朝廷乎宝祚無レ動久、常磐堅磐爾夜守日守仁護幸奉賜へと申給波久止申、自余社告文並同焉、
『日本三代実録』貞観9年4月15日甲申条(867)是日、諸衛警固、縁二賀茂祭一也、
『日本三代実録』貞観9年4月16日乙酉条(867)賀茂祭如レ常、
『日本三代実録』貞観9年4月17日丙戌条(867)諸衛解レ厳、
『日本三代実録』貞観9年8月21日丁亥条(867)太皇太后宮宮主外従五位下直千世麻呂、斎院宮主大初位下直伊勢雄等五人賜二姓直宿禰一、
『日本三代実録』貞観9年9月11日丁未条(867)遣二使於賀茂御祖、別雷、松尾、稲荷、貴布禰、丹生川上、住吉、水主大神、長田、乙訓等神社一奉幣、先月祈二五穀一、今以賽焉、
『日本三代実録』貞観10年4月6日庚午条(868)遣二使於賀茂社一奉幣、謝二-申伐木并穢損事一、
『類聚国史』5(神祇5賀茂大神) 貞観10年4月20日甲申条(868)諸衛警固、縁二賀茂祭一也、
『類聚国史』5(神祇5賀茂大神) 貞観10年4月21日乙酉条(868)賀茂祭、斎内親王依レ穢不レ向二於社一、
『類聚国史』5(神祇5賀茂大神) 貞観10年4月22日丙戌条(868)諸衛解レ厳、
『日本紀略』貞観10年6月23日乙酉条(868)奉二-幣賀茂以下諸社十所一、祈二嘉澍一也、
『日本紀略』貞観10年10月27日丁亥条(868)賀茂斎儀子内親王、献二-物皇太后於常寧殿一、奉レ賀三皇太后満二卌之算一也、賜二親王以下禄一、
『日本三代実録』貞観10年12月9日戊辰条(868)斎院長官従五位下兼行皇太后宮大進藤原朝臣忠主従五位上、
『日本三代実録』貞観11年2月9日丁酉条(869)是日、賀茂斎儀子内親王始笄、
『日本三代実録』貞観12年4月14日丙申条(870)諸衛警固、縁二賀茂祭一也、
『日本三代実録』貞観12年4月15日丁酉条(870)賀茂祭如レ常、
『日本三代実録』貞観12年4月16日戊戌条(870)諸衛解レ厳、
『日本三代実録』貞観12年6月10日辛卯条(870)自二五月一霖雨、至レ此未レ止、奉二-幣賀茂、貴布禰神一祈二止雨一、告文曰、 天皇我詔旨止、掛畏岐賀茂大神乃広前爾申賜倍止申久、近来雨降渉レ旬天、百姓乃農業流損倍志、掛畏岐大神乃厚助爾依天志、此災波可レ止志止所念行天奈毛、神祇権大祐正六位上斎部宿禰高善乎差レ使天、大幣乎令二捧持一奉出須、此状乎聞食天、降雨忽晴天、五穀不損天、天皇朝廷乎常磐堅磐爾護幸倍賜比、天下平安爾助賜比矜賜倍止、恐美恐美毛申賜波久止申、貴布禰神告文同焉、
『日本三代実録』貞観12年6月22日癸卯条(870)奉二-幣賀茂御祖、別雷両社一、祈レ止二霖雨一、告文曰、 天皇我詔旨止、掛畏岐賀茂大神乃広前爾申賜倍止申久、近来霖雨難レ晴天百姓乃農業頗流損世利、因レ茲天皇大神御社爾犯レ穢事止毛在止令二巡𢮦一爾、上宮四至之内爾伐レ木、并穢損事在止勘申世利、仍乍驚懼、其畏利為レ令レ申爾、神祇伯従四位下藤原朝臣広基乎差レ使、礼代大幣乎令二捧持一天奉出賜布、掛畏岐皇大神、此状乎聞食天、相共爾助矜賜天、百姓乃農業豊登良志米、天皇朝廷乎宝位無レ動久、常磐堅磐爾夜守日守爾護幸賜倍止、恐美恐美毛申賜波久止申、御祖社告文同焉、
『日本三代実録』貞観12年11月17日乙丑条(870)分二-遣使者諸社一、奉二鋳銭司及葛野鋳銭所新鋳銭一、賀茂御祖別雷両社使前安芸介従五位下大中臣朝臣是直、松尾社使神祇権大祐正六位上斎部宿禰高善、稲荷社使神祇大祐正六位上大中臣朝臣常道、石清水社使主水佑正六位上大中臣朝臣坂田麿、平野社使神祇少副正六位上大中臣朝臣有本、梅宮社使大監物従五位下橘朝臣茂生、春日社使雅楽少允従七位上大中臣朝臣冬名、大原野社使主水正正六位上大中臣朝臣鹿主、
『類聚国史』5(神祇5賀茂大神) 貞観13年4月20日丙申条(871)諸衛警固、縁二賀茂祭一也、
『類聚国史』5(神祇5賀茂大神) 貞観13年4月21日丁酉条(871)停二賀茂祭一、
『類聚国史』5(神祇5賀茂大神) 貞観13年4月22日戊戌条(871)諸衛解レ厳、
『日本三代実録』貞観14年3月23日癸巳条(872)今春以後、内外頻見二怪異一、由レ是、分二-遣使者諸神社一奉幣、便於二近レ社道場一、毎レ社転二-読金剛般若経一、以二参議民部卿正四位下兼行春宮大夫南淵朝臣年名一、為二賀茂両社使一、参議正四位下行右兵衛督兼近江守源朝臣勤為二松尾梅宮両社使一、参議正四位下行左大弁兼勘解由長官近江権守大江朝臣音人為二平野社使一、参議右大弁従四位上兼行讃岐権守藤原朝臣家宗為二大原野社使一、従五位上行少納言兼侍従和気朝臣彜範為二石清水社使一、神祇伯従四位下藤原朝臣広基為二稲荷社使一、石清水社告文曰云々、又辞別天申、去年陰陽寮占申久、就二蕃客来一天不祥之事可レ在止占申世利、今渤海客随二盈レ紀例一天来朝世利、事不レ獲レ已、国憲止之天可召、大菩薩此状乎毛聞食天、遠客参近止毛、神護之故爾、無レ事久矜賜倍止恐美恐美毛申賜波久止申、自余社文一准二此例一、
『日本三代実録』貞観15年4月17日辛亥条(873)公卿就二太政官曹司庁一、授二文武百官成選位記一、去十五日可レ行此事一、自有二常式一、而彼日当二賀茂祭一、故避レ之、非レ緩也、
『日本三代実録』貞観15年5月5日戊辰条(873)神祇官陰陽寮言、雨雹之怪、賀茂松尾等神成レ祟、於レ是遣二使社頭一奉二幣并走馬一、以謝二神怒一、其走馬、賀茂御祖別雷両社各十疋、松尾五疋、並装二-飾人馬一、足レ悦二神明一、告文曰云々、従五位下行伊勢介良岑朝臣晨茂乎差レ使天奉出須、
『日本三代実録』貞観15年5月9日壬申条(873)遣二参議大江朝臣音人於賀茂神社一奉幣、申二-謝雨雹之咎徴一、告文曰云々、高岑寺乃仏奉移礼留事爾依天、皇大神成レ祟之賜倍利止卜申世利、但此仏波、大神乃成祟之賜倍留仁依天、他処爾奉レ移倍支状、去年祈申之賜倍利、須レ奉レ移留日爾、先此状乎申賜倍之、而不二申賜一天大神乃御社近之天、騒動世留事在介利、此怠乎畏恐天、平久為レ謝無為、始レ自二今月廿日一天、一万巻乃金剛般若経令レ奉レ読無止須、仍参議正四位下行左大弁兼勘解由長官近江権守大江朝臣音人乎差使天云々、
『日本三代実録』貞観15年5月20日癸未条(873)転二-読経巻一、更延二二日一、奉二-幣於賀茂、松尾、乙訓、稲荷、貴布禰、丹生川上雨師神一並祈二嘉澍一也、
『日本三代実録』貞観15年7月9日辛未条(873)遣二使於賀茂、松尾、稲荷、乙訓、貴布禰神社一奉幣、祈レ雨也、
『日本三代実録』貞観15年10月6日丁酉条(873)遣二使於賀茂、松尾、平野、大原野一奉レ幣、告文曰、天皇我詔旨止掛畏岐賀茂大神乃広前爾申賜倍止申久、頃月之間、物怪頻見己止在利、仍令二占求一、爾、御病事可レ在止占申世利、此乎聞食天驚恐御坐須、今所念行久、先々爾毛如レ此岐不祥乎波、皇大神乃矜賜爾依天、災咎消除太利、因レ茲、参議従四位上行左兵衛督兼美濃権守源朝臣能有乎差レ使天、礼代乃大幣乎令二捧持一天奉出須、皇大神此状乎聞食天、未然之前爾災咎乎消滅賜天、御体無レ驚久、常磐堅磐矜守利幸賜天、天下平久護賜此助賜倍止恐美恐美毛申賜久止申、参議正四位下行左衛門督在原朝臣行平為二松尾社使一、参議従四位上守治部卿兼行備前守藤原朝臣仲統為二平野社使一、従四位上行兵部大輔兼備中守藤原朝臣諸葛為二大原野社使一、其告文詞並准此レ焉、
『日本三代実録』貞観16年4月20日戊申条(874)諸衛警固、縁二賀茂祭一也、
『日本三代実録』貞観16年4月21日己酉条(874)賀茂祭、染二淳和院火穢一之人入二於斎院一、仍停二祭事一、
『日本三代実録』貞観16年8月20日丙子条(874)天皇聖体乖予、遣二使於賀茂御祖別雷両社一、奉幣祈祷、告文曰、 天皇我詔旨止、掛畏岐賀茂乃大神乃広前爾申賜部止申久、近来皇帝御体爾労苦給処有爾依天、令二卜求一賜爾、陰陽寮占申云、皇大神爾祈申賜波、即愈息万利給比奈无止勘申世利、依レ此天乍レ歓、参議治部卿正四位下藤原朝臣仲統乎差レ使天、礼代乃大幣帛乎令二捧持一天奉出須、然毛今年乃四月祭使乎、依レ例天奉出給无止世之爾、淳和院乃失火之穢爾相交流人々、大宮之内爾参雑礼利止聞食天、御卜爾令二問求一賜之爾、穢気見太利、今年波祓謝申賜天、祭使波停止天可レ吉止卜申世利岐、仍御卜乃随爾行仕奉之女太利、故怠爾波不レ在、然而祟咎毛也成給无可止奈无謹畏御坐須、此状乎聞食天、無二咎祟一久守恵比助幸部奉賜倍、又皇大神乎異爾栄飾奉止之天奈毛、禰宜千継、門麻呂等爾外従五位下乃冠授賜布、神那可良毛毎レ事平久聞食天、天皇我御体乎自レ常異爾、夜守日守爾、常磐堅磐爾、護幸倍奉賜比、国家無レ事久天下平安爾、風水無レ災之天、五穀豊登左之女給倍止、恐美恐美毛申賜久止申、授二御祖社禰宜正六位上賀茂県主千継、別雷社禰宜賀茂県主門麻呂並外従五位下一、
『日本三代実録』貞観17年4月20日壬申条(875)諸衛警陣、縁二明日賀茂祭一也、
『日本三代実録』貞観17年4月21日癸酉条(875)賀茂祭如レ常、
『日本三代実録』貞観17年6月3日甲寅条(875)分二-遣使者於山城国賀茂御祖別雷、松尾、稲荷、乙訓、貴布禰、大和国丹生川上七社一奉幣、丹生川上奉二黒馬一、以レ祈二嘉澍一也、
『日本三代実録』貞観17年7月2日壬午条(875)遣レ使班二-幣賀茂御祖別雷、松尾、稲荷、乙訓、木島、貴布禰、丹生川上八神社一、祈レ雨也、
『日本紀略』貞観17年8月25日乙亥条(875)奉二-幣伊勢及賀茂御祖別雷社、松尾、稲荷、木島、乙訓、丹生社一、祈二秋稔一也、
『日本三代実録』貞観18年2月9日丁巳条(876)賀茂斎儀子内親王始笄、
『日本三代実録』貞観18年4月14日辛酉条(876)停二賀茂祭一、以二大極殿火災一也、
『日本三代実録』貞観18年5月4日庚辰条(876)勅遣二参議従三位民部卿藤原朝臣冬緒一向二松尾社一、参議正四位下行勘解由長官兼式部大輔近江守菅原朝臣是善向二賀茂御祖別雷両社一、同告二大極殿災一、
『日本三代実録』貞観18年5月23日己亥条(876)賀茂斎儀子内親王依レ病出二紫野斎院一、移二-居皇太后宮染殿宮一、
『日本三代実録』貞観18年10月5日戊申条(876)賀茂斎儀子内親王称二病加劇一、修レ状請レ停レ斎、詞旨懇切、 詔許レ之、遣二参議正四位下行勘解由長官兼式部大甫近江守菅原朝臣是善一向二社頭一申二-謝事由一、斎院司休レ官各帰レ家、
『日本三代実録』元慶元年2月17日己未条(877)卜二-定伊勢賀茂斎内親王一、伊勢斎識子内親王、賀茂斎敦子内親王並卜食、
『日本三代実録』元慶元年2月24日丙寅条(877)遣二使於賀茂神社一奉レ幣、告以レ定二斎内親王一、告文曰、 天皇我詔旨止掛畏岐賀茂大神乃広前爾申賜倍止申、忝以二拙劣一天天日嗣乎受賜利、恐美懼利大坐須、皇大神乃厚護爾依天、天皇朝廷波平久無レ事久有倍之、自レ今以後毛助賜比明護賜牟爾依天之、食国乃天下波愈益爾平久可レ有岐、又前爾侍之儀子内親王波身乃安美重岐爾依天、太上天皇乃御時爾令二退出一天岐、今新爾嗣レ位天波相替天可令二奉仕一岐物奈利止為天奈毛、敦子内親王乎卜定天阿礼乎度女爾進状乎、参議刑部卿正四位下兼行勘解由長官近江守菅原朝臣是善乎差レ使天、宇豆乃大幣乎令二捧持一天進良久乎、恐美恐美毛申賜波久止申、
『日本三代実録』元慶元年4月9日庚辰条(877)巳四剋始構二-造大極殿一、以二正五位下行内蔵頭和気朝臣彜範、従五位上守権左中弁藤原朝臣春景、従五位下守木工権頭藤原朝臣維邦、左京亮従五位下坂上宿禰斯文、右大史正七位上時統宿禰当世一行レ事、先レ是、奉二-幣於伊勢大神宮及石清水八幡大菩薩宮、賀茂御祖別雷、松尾、平野、稲荷等神社一、告文曰云々、
『日本三代実録』元慶元年4月13日甲申条(877)諸衛警固如レ常、縁二賀茂祭一也、
『日本三代実録』元慶元年4月14日乙酉条(877)賀茂祭如レ常、
『日本三代実録』元慶元年6月14日癸未条(877)奉二-幣石清水八幡大菩薩宮并賀茂御祖、別雷、松尾、稲荷、木島、乙訓、大依羅、垂水、広田、生田、長田神社一、祈二甘雨一也、
『日本三代実録』元慶元年7月19日戊午条(877)遣二従五位上守刑部大輔弘道王於伊勢大神宮一、并分二使賀茂御祖別雷、松尾、平野、大原野神社一奉幣、告以レ改二年号一、告文曰、天皇我詔旨止、掛畏松尾大神乃広前爾申賜倍止申久、食国之法止之天、即位之後爾波必改二年号一、而爾備後国貢二白鹿一、但馬国献二白雉一、尾張国言二木連理一利、如レ是嘉瑞波、是薄徳乃令二感致一倍岐物爾毛非須、掛畏岐皇大神乃慈賜比示賜倍留物奈利止為天奈毛、貴喜比受賜利天、御世乃名乎改天為二元慶元年一留事乎、左京大夫従四位上忠範王乎差レ使天奉出須、須二早申奉出一之、而乎有二事妨一天暫間延怠利、掛畏皇大神、此状乎平聞食天、天皇朝廷宝位無レ動久常磐堅磐爾守幸倍賜倍止申賜止申、辞別申久、頃月不レ雨之天、百姓農業皆焼損太留由、先申奉出已了太利、而至レ今未レ雨、因レ茲重亦其由乎祷申奉出賜布、皇太神助賜比天、風雨随レ時倍天矜賜比、所二焼残一乃五穀全登之女賜倍止申波久止申、
『日本三代実録』元慶2年3月9日乙巳条(878)分二-遣使者一、奉二幣馬於賀茂御祖別雷、松尾、石清水、稲荷、住吉、平野、大原野、梅宮一、及班二-幣五畿七道諸名神一、賽二旧祷一也、告文曰、天皇我詔旨止、掛畏岐平野大神乃広前爾恐美恐美毛申賜倍止申久、去秋御体不予爾御座之時、去八月十九日爾祈申之久、御体平安爾護助奉賜比、宝位無レ動久御坐賜波、礼代大幣爾御馬牽副天奉出无止祈申之岐、祈申之毛験久、平安爾護助奉賜倍利、因レ茲今所二祈申一乃大幣帛爾、御馬令二牽副一天、参議正四位下行左大弁兼左近衛中将近江権守源朝臣舒乎差使弖奉出須、此状乎平久聞食天、天皇朝廷乎、今毛今毛常磐堅磐爾護幸倍奉賜比、天下平安爾五穀豊登之米賜倍止、恐美恐美毛申賜波久止申、自余社告文並准レ此、
『日本三代実録』元慶2年4月19日甲申条(878)諸衛警固、縁二明日賀茂祭一也、
『日本三代実録』元慶2年4月20日乙酉条(878)賀茂祭如レ常、先レ是、左近衛官人之染二死穢一者、入侍二-陣座一、是故祭使不二更辞見一、便自二内蔵寮一赴レ社、
『日本三代実録』元慶2年6月3日丁卯条(878)自二去月一至レ此、亢陽不レ雨、名山大川能興レ雲致レ雨、並班レ幣祈レ雨、賀茂御祖別雷、松尾、稲荷、貴布禰、丹生川上、乙訓、水主八社是也、丹生川上加二-奉黒馬一疋一、
『日本三代実録』元慶3年2月29日己丑条(879)以二左近衛少将正五位下兼行近江権介藤原朝臣遠経一為二斎院長官一、余官如レ故、
『日本三代実録』元慶3年4月13日壬申条(879)諸衛警固如レ常、以二明日賀茂祭一也、
『日本三代実録』元慶3年4月14日癸酉条(879)停二賀茂祭一、向上諸神祭祀、並従停止、縁太皇大后崩也、
『日本三代実録』元慶3年5月21日庚戌条(879)奉二-幣賀茂御祖、別雷、松尾、稲荷、貴布禰、乙訓等神社一、祈二膏雨一也、
『日本三代実録』元慶4年2月5日己丑条(880)遣二正四位下行右京大夫兼山城権守基棟王一向二於賀茂御祖別雷両社一、従四位上行山城守棟貞王於松尾社、散位従四位下和王於平野社、従四位下行右馬頭藤原朝臣門宗於大原野社、正五位下行神祇大副大中臣朝臣有本於稲荷社、並奉幣、告以二大極殿成一、告文曰、天皇我詔旨止、掛畏支賀茂大神乃広前爾申賜倍止申久、去貞観十九年四月九日、大極殿并東西楼廊等作始之時仁令レ祈申之久、如レ是岐国家大事乎波、皇大神乃厚助仁依天奈毛可二成立一止、令二祈申一賜岐、祈申之母之留久無レ事久平久令二作竟一賜倍利、仍今吉日良辰乎択定天、正四位下行右京大夫兼山城権守基棟王乎差レ使天、祷乃大幣帛乎令二捧持一天奉出給不、此状乎平久聞食天、今毛往前毛無レ驚久無レ事久護矜賜比、天皇朝庭乎宝位無レ動久常盤堅盤爾護幸倍賜比、天下国家乎毛平久護矜賜倍止申、
『日本三代実録』元慶4年4月11日甲午条(880)賀茂内親王臨二於鴨水一解禊、即便入二紫野院一、公卿及所司供事如二常式一、三年斎之後、去年可レ入二野宮一、縁レ穢而停、非レ緩也、
『日本三代実録』元慶4年4月13日丙申条(880)諸衛警陣、以二明日賀茂祭一也、
『日本三代実録』元慶4年4月14日丁酉条(880)賀茂祭如レ常、
『日本三代実録』元慶4年5月16日己巳条(880)廼者膏雨難レ得、農民稍憂、是日、遣二使者於賀茂御祖、別雷、松尾、稲荷、乙訓、貴布禰、丹生川上等社一、奉レ幣祈レ雨、丹生川上加二-奉黒馬一、告文曰、云々、
『日本三代実録』元慶4年5月20日癸酉条(880)快雨、勅録下公卿及近衛兵衛衛門六府官人已下見二-在陣頭一者上、以二穀倉院調布一賜レ之、公卿加二-賚内蔵寮御服絹一各有レ差、外記内記侍二仗下一者亦預焉、賀二甘澍一也、先レ是、有レ勅議定、始レ自二廿二日一、三ヶ日間、於二賀茂松尾等社一、将レ修二潅頂経法一、為レ祈レ雨也、崇朝遍雨、故暫停止、是時右大臣摂政、毎レ遇二水旱災異一、側レ身修レ職、欲レ消二-去之一、密勿祗畏、恭事二神明一、
『日本三代実録』元慶4年6月22日甲辰条(880)渉レ旬不レ雨、旱気焦レ草、遣二使賀茂等十一社一、奉幣祈雨、告文云々、但丹生川上加二-奉黒馬、
『日本三代実録』元慶5年4月19日丙申条(881)諸衛警固、以二明日賀茂祭一也、
『日本三代実録』元慶5年4月20日丁酉条(881)賀茂祭、内蔵権頭従五位上兼行讃岐介良岑朝臣晨直奉二-承祝詞一、向レ社宣旨、其祝詞尾曰、辞別申久、前年爾進礼留斎王波、重喪爾遭太留爾依天退出志女天支、今須波諒闇波天々乃後占定天進无、其間波皇我朝廷乎平介久安良介久幸賜比護賜倍止申賜波久止申、
『日本三代実録』元慶6年4月7日己卯条(882)是日、卜二-定伊勢斎内親王一、無品掲子内親王卜食、其賀茂斎者、諸内親王不二卜食一、故今日無レ定、
『日本三代実録』元慶6年4月9日辛巳条(882)卜二-定賀茂斎王一、二世穆子女王卜食、一品行式部卿諱光孝天皇親王之女也、
『日本三代実録』元慶6年4月22日甲午条(882)於二朱雀門前一修二大祓一、以二去八日大膳職人死、十日大蔵省人死、平野、松尾、賀茂等祭停止一故也、臨時大祓於二建礼門前一行レ之、因レ穢不レ可レ用二大蔵省幄一、仍用二朱雀門一也、
『日本三代実録』元慶6年4月24日丙申条(882)諸衛警固、以二明日賀茂祭一也、雖レ停二祭事一、猶有二警陣一、例也、
『日本三代実録』元慶6年5月15日丙辰条(882)遣レ使奉二-幣伊勢大神宮及賀茂神社一、告以レ定二斎内親王并斎王一也、散位従五位下時景王、為二伊勢大神宮使一、参議正四位下行右衛門督藤原朝臣諸葛、為二賀茂神社使一、
『日本三代実録』元慶6年7月24日甲子条(882)賀茂斎女王修二禊鴨水一、入二於初斎院一、
『類聚国史』5(神祇5賀茂大神) 元慶7年4月24日庚申条(883)諸衛警固、縁二明日賀茂祭一也、
『類聚国史』5(神祇5賀茂大神) 元慶7年4月25日辛酉条(883)賀茂祭如レ常、
『類聚国史』5(神祇5賀茂大神) 元慶7年4月26日壬戌条(883)諸衛解レ厳、
『日本三代実録』元慶7年5月22日丁亥条(883)夜、分二-遣使者於松尾、賀茂御祖、別雷、稲荷、貴布禰、水主、乙訓七社一、奉レ幣而雩、以レ旱也、
『日本三代実録』元慶7年7月13日丁丑条(883)遣二従四位上行神祇伯棟貞王一、奉二-幣於伊勢大神宮一、賀茂御祖別雷、松尾、稲荷、貴布禰、丹生河上、大和等神社、遣二レ使班一レ幣、丹生河上加奉二白馬一、先レ是、六月廿七日鷺集二大極殿鵄尾一、今月三日已往霖雨淹レ旬、河水溢漲、内外略愁、陰陽寮占奏言、主上可レ患二疫病一、且天下将レ憂二風水一、故予祈二神明一、至レ是賽焉、
『日本三代実録』元慶7年9月2日乙丑条(883)奉二-幣於賀茂御祖、別雷、松尾、貴布禰、稲荷、乙訓、丹生河上神社一、祈二止雨一也、
『日本三代実録』元慶8年3月22日癸未条(884)喚二神祇官於左仗頭一、卜二-定斎王、其伊勢斎者皇女繁子卜食、賀茂斎者皇女穆子、太上天皇在レ祚、卜定入二初斎院一、今依レ旧不レ変、
『日本三代実録』元慶8年4月9日己亥条(884)以二皇女伊勢斎繁子、賀茂斎穆子一並為二内親王一、
『日本三代実録』元慶8年4月11日辛丑条(884)遣二参議刑部卿正四位下兼行近江守忠貞王一、向二賀茂神社一、告以下不レ改二斎王一并為二内親王一之状上、
『類聚三代格』17(国諱追号并改姓名事) 元慶8年4月13日勅(884)勅、朕以二庸菲之資一、謬膺二天横之繇一、仰二璇璣一而如レ冠二夏日一、撫二玉鏡一而若レ履二春氷一、今所レ有男女、皆居レ藩時生也、既殊二周邦之懿親一、何比二漢典之封建一、加以、弘仁已降、茂躅長存、或材子八人、作二元凱於朝端一、或本枝百世、助二蒸嘗於祖廟一、彼聖明之深図遠算、猶尚如レ斯、況朕之褊慮短矜、豈曰二克堪一、漢明帝有レ言、我子不レ当下与二先帝子一等、至哉言也、宜下同賜二朝臣之姓一、勿上レ煩二景風之吹一、是朕一身閨閫之事耳、不レ欲レ為二後王之法一、唯二女応レ供二-奉斎宮斎院一者、上畏二神明一、下迫二群議一、不レ得レ遂二朕之素懐一、其余皆罷二鴻臚之冊務一、従二燕翼之謀一、普告二遐迩一、令レ知二朕意一、主者施行、
元慶八年四月十三日
『日本三代実録』元慶8年4月13日癸卯条(884)勅曰、朕以二庸菲之資一、謬膺二大横之繇一、仰二璇璣一如レ冠二夏日一、撫二玉鏡一而若履二春氷一、今所レ有男女、皆居レ藩時生也、既殊二周邦之懿親一、何比二漢典之封建一、加之、弘仁已降、茂躅長存、或材子八人、作二元凱於朝端一、或本枝百世、助二蒸嘗於祖廟一、彼聖明之深図遠算、猶尚如レ斯、況朕之褊慮短矜、豈曰二克堪一、漢明帝有レ言、我子不レ当下与二先帝子一等上、聖哉言也、宜下同賜二朝臣之姓、勿上レ煩二景風之吹一、是朕一身之閨閫之事耳、不レ欲レ為二後王之法一、唯二女応レ供二-奉斎宮斎院一者、上畏二神明一、下迫二群議一、不レ得レ遂二朕之素懐一、其余皆罷二鴻臚之冊務一従二燕翼之謀一、普告二遐迩一、令レ知二朕意一、
『日本三代実録』元慶8年4月18日戊申条(884)諸衛警固如二旧儀一、以二明日賀茂祭一也、
『日本三代実録』元慶8年4月19日己酉条(884)賀茂祭如レ常、斎内親王不レ向二神社一、
『日本三代実録』元慶8年4月21日辛亥条(884)繁子穆子両内親王、各賜二絹五十疋、綿二百屯、細布廿端、調布百端、商布三百段、貞観銭廿貫文、韓櫃廿合一、
『類聚三代格』1(神社事) 元慶8年7月29日符(884)太政官符
応レ禁制賀茂神山狩猟事
右右大臣宣、奉 レ勅、件神山四至之内、不レ可二穢黷一之状、制旨間降、如レ聞、無頼之輩偸二-射猪鹿一、宜三厳加二禁止一、若有二犯者一、五位已上取レ名奏聞、六位已下捉二-進其身一、依レ法科処、曽不二寛宥一、
元慶八年七月廿九日
『日本三代実録』仁和元年4月10日甲子条(885)是日、賀茂斎内親王擬下祓二河辺一便入中紫野院上、今月八日、弁官有二人死穢一、因而停止、於二建礼門前一大祓、
『日本三代実録』仁和元年4月18日壬申条(885)諸衛警固、以二明日賀茂祭一也、
『日本三代実録』仁和元年4月19日癸酉条(885)停二賀茂祭一、縁レ有二人死穢一也、
『日本三代実録』仁和元年6月28日辛巳条(885)賀茂斎内親王臨二鴨水一修レ禊、便入二紫野院一矣、
『日本三代実録』仁和元年9月22日癸卯条(885)分二-遣使者於賀茂上下、松尾、稲荷、住吉、石清水、高賀茂、平野、春日、大原野、梅宮十一神社奉幣、告文曰、天皇我詔旨止掛畏支賀茂大神乃広前爾申賜倍止申久、頃間天皇我御為爾、不祥之事可有之止、就事天所示奈毛有留、如此之事乎波、掛畏支皇大神乃広恵爾依天之、予防倍岐物奈利止奈毛所念行須、故是以、参議正四位下行近江権守源朝臣是忠乎差レ使天、礼代乃大幣乎令二捧持一天奉出須、掛畏支皇太神、此状乎平久聞食天、天皇朝廷乎宝位無レ動久、常磐堅磐爾、夜守日守爾護幸賜比、諸不祥事乎波未然爾防除賜比天、風水之災不二発賜一天、五穀豊稔爾天下平安爾守護賜倍止、恐美恐美毛申賜久止申、余社告文又復准レ此、
『日本三代実録』仁和2年4月5日甲寅条(886)以二従五位下守右少弁源朝臣希一為二斎院長官一、右少弁如レ故、
『日本三代実録』仁和2年4月23日壬申条(886)諸衛警固、縁二明日賀茂祭一也、
『日本三代実録』仁和2年4月24日癸酉条(886)賀茂祭如レ常、
『日本三代実録』仁和2年6月25日条(886)任二相撲司一、以二中納言従三位兼行左衛門督源朝臣能有、参議正四位下行左兵衛督源朝臣光、参議正四位下行皇太后宮大夫兼播磨守藤原朝臣国経、参議正四位下行左近衛中将兼近江権守藤原朝臣有実、参議正四位下行近江守源朝臣是忠、正四位下行左近衛権中将兼備前守源朝臣興基、従四位上行美濃守源朝臣貞恒、従五位上守左近衛少将兼行讃岐介藤原朝臣高藤、左衛門権佐従五位上源朝臣昇、従五位上守左少弁兼行式部少輔藤原朝臣佐世、左兵衛権佐従五位下藤原朝臣恒興、従五位下行左馬助藤原朝臣連並十二人一為二左司一、正三位行中納言兼民部卿陸奥出羽按察使在原朝臣行平、参議正四位下行右兵衛督兼伊予権守源朝臣冷、参議正四位下行右近衛中将源朝臣直、参議正四位下行右衛門督藤原朝臣諸葛、大蔵卿正四位下源朝臣定有、散位従四位上源朝臣是貞、右近衛中将従四位下兼行木工頭讃岐権守平朝臣正範、右近衛少将正五位下兼行越中守源朝臣堪、右衛門佐従五位上平朝臣季式、従五位上守右兵衛佐源朝臣元、従五位下行右馬助在原朝臣載春、斎院長官従五位下兼守右少弁源朝臣希十二人為二右司一、左右大臣已下於二左仗下一先議定、差二外記一齎二議草一、向太政大臣里第視レ之、然後賜二中務省一、於二外記候庁一拝除、即時左右司、各就二左右衛門府一始行レ事、承前之例、始行レ事之時、各発二音楽一、而皇妣贈皇太后忌当二今月晦日一、仍随停止、
『日本三代実録』仁和2年8月7日癸丑条(886)自二去四月一霖雨、至レ此大風雨洪水、分二-遣使者於賀茂上下、松尾、稲荷、貴布禰、丹生河上六社一、奉レ幣祈二止雨一、告文曰、天皇我詔旨止、掛畏支松尾大明神乃広前申賜倍止申、方今秋稼乃登熟須留時奈利、大神乃厚護爾依天之、風雨乃災不レ起之天、五穀豊稔倍之止奈毛所念行須、故是以正親司少令史従八以上斎部宿禰岑吉乎差レ使天、礼代乃大幣帛乎令二捧持一天奉出須、此状乎神奈可良毛聞食天、風雨之災防除給比、五穀茂盛仁天下饒足之女給比、天皇朝廷乎宝祚無動久、常磐堅磐爾夜守日守利爾護幸奉賜倍止、恐美恐美毛申給久止申、自余社告文准レ此、丹生河上貴布禰二社加二-奉白馬各一疋一、
『日本三代実録』仁和2年9月27日壬寅条(886)賀茂神社辺有レ狼、喫二-殺人一、行人相逢、以レ刀刺殺、
『日本三代実録』仁和3年2月2日丙午条(886)以二従五位下行少内記三善宿禰清行一為二大内記一、従五位下行式部大丞藤原朝臣興範為二掃部頭一、従五位下守刑部大輔小野朝臣喬木為二山城守一、従五位上守宮内大輔源朝臣弼為二大和権守一、大輔如レ故、従五位下守図書頭清江宿禰貞直為二和泉守一、掃部頭従五位下在原朝臣一貫為二摂津守一、散位従五位上藤原朝臣継蔭為二伊勢守一、従五位上橘朝臣茂蔭為二尾張介一、前遠江守従五位上藤原朝臣清保為二遠江守一、散位外従五位下山口朝臣岑世為二伊豆守一、従四位上行左馬頭藤原朝臣利基為二相模守一、左馬頭如レ故、従五位上守大蔵大輔源朝臣建為二介一、斎院長官従五位下兼守右少弁源朝臣希為二近江権介一、余官如故一、散位従四位下藤原朝臣諸藤為二美濃権守一、従五位下守左衛門権佐藤原朝臣良積為二介一、散位従五位下多治真人安方為二越前介一、従四位下行中務大輔十世王為二加賀権守一、中務大輔如レ故、従五位上行内薬正兼侍医針博士深根宿禰宗継為レ介、余官如レ故、従五位下行民部少丞藤原朝臣野風為二越後守一、散位従五位下藤原朝臣仁道為レ介、従四位下行民部大輔藤原朝臣忠主為二丹波守一、従五位下行主水正忠王為二丹後守一、勘解由次官従五位下兼守大判事惟宗朝臣直宗為二播磨大丞一、余官如レ故、従四位上行弾正大弼雅望王為二美作権介一、弾正大弼如レ故、散位従四位下藤原朝臣清経為二周防権守一、外従五位下矢田部造利人為二長門介一、外従五位下佐伯直清氏為二淡路守一、従四位上源朝臣国紀為二伊予権守一、従四位下藤原朝臣保則為二守一、主計頭従五位上宮道朝臣弥益為二権介一、本官如レ故、散位従五位下橘朝臣興門為二肥前守一、
『類聚三代格』2(年分度者事) 仁和3年3月14日官符(887)太政官符
応加試年分度者二人事
一人為二大比叡明神分一大毘廬遮那経業
一人為二小比叡明神分一一字仏頂輪王経業
右延暦寺座主法眼和尚位円珍表偁、故祖師法印大和尚位最澄、延暦末年奉レ使入唐、求法事訖、臨レ廻請二於当州一公馮、且明州主朝議郎使持節明州諸軍事守明州刺史上柱国熒陽鄭審則批判求法目録称、最澄闍梨、性稟二生知之才一、来レ自二礼儀之国一、南登二天台之嶺一、窮二智者之法門一、西泛二鏡湖之水一、探二潅頂之神秘一、可レ謂法門龍象青蓮出レ池者、然則西朝重二我国家一称為二礼儀之郷一、当寺法主大比叡小比叡両明神、陰陽不測、造化無為、弘誓亜レ仏、護国為レ心、所レ伝真言潅頂之道、所レ建大乗戒壇之検、祖師創開専頼二主神一、若不レ然者、何立二此業一永鎮二国家一、頃年度僧惣八箇人、其六人者於二東塔院一春秋試度、惣為二鎮国一不レ捐二其分一、其二人者於二西塔院一春三月試度、就レ中一人為二賀茂明神分一、一人為二春日明神分一、主神独無二其分一、貞観二年擬レ奏二斯由一、依違不レ言、黙而至レ此、自レ彼以来窅祟頻繁、遂不レ言者恐神明怒、且夫毘盧遮那経者、八万法蔵之肝心、陀羅尼教之梁棟也、随経議釈七百余紙、文理尋深、局知難レ会、而旧置二年分一、只是一人、学徒乏少、大道猶哽、又頂輪王経者真言之枢機、法城之門戸也、所以祖師積レ年、耽習其得二呪験一、仍於二 延暦天子聖躬不予之時一、依レ経修法奉レ資二宝祚一、山家之開泰莫レ不レ頼二此功一、是以東西弟子、至レ今勤修、円珍伏見、仏法中興莫レ過二承和之聖代一、山神膺レ慶偏仰二当時之鴻慈一、伏望、蒙二-加度者二人一為二両神之分一、解二地主之結恨一、増二護国之冥威一、即以二三月十七日一与二元初二人一同共試度、自余事条准二延暦弘仁両朝之格一、又受戒之後、毎日読二金剛般若経各一巻一、誓二-願両山一、奉二-護一天一、十二年末恒奏二巻数一、復試之日除二金光明経一並読二六巻止観一者、中納言従三位藤原朝臣山陰宣、奉 レ勅、宜レ依二来表一、須准二去延暦廿五年正月廿六日格一永以行上レ之、
仁和三年三月十四日
『日本三代実録』仁和3年3月14日戊子条(887)勅加二-試延暦寺年分度僧二人一、其一人大毘盧遮那経業、為二大比叡神分一、其一人一字頂輪王経業、為二小比叡神分一、先レ是、彼寺座主前入唐尋教釈法眼和尚位円珍上表言、国之レ為国、本依レ設レ礼、人之為レ人、亦由レ行レ礼、故書曰、人有レ礼則安、無レ礼則危、経曰、人能行レ礼、得レ生二天上一、是知、内経外書、以レ礼存立、故祖師法印大和尚位最澄、延暦末年、奉レ使入唐、求法事訖、臨レ廻請二当州公憑一、且明州朝議郎使持節明州諸軍事守明州刺史上国柱熒陽鄭審則批判求法目録称、最澄闍梨、性稟二生知之才一、来レ自二礼儀之国一、南登二五台之嶺一、窮二智者之法門一、西泛二鏡湖之水一、探二潅頂之神秘一、可レ謂法門龍象、青蓮出レ池者、然則西朝重二我国家一、称為二礼儀之郷一、当寺法主大比叡小比叡両明神、陰陽不測、造化無為、弘誓亜レ仏、護国為レ心、所レ伝真言潅頂之道、所レ建大乗戒壇之検、祖師創開、専頼二主神一、若不レ然者、何立二此業一、永鎮二国家一、頃年度レ僧、惣八箇人、其六人者於二東塔院一、春秋試度、惣為二鎮国一、不レ捐二其「一」分一、其二人者、於二西塔院一、春三月試度、就レ中一人為二賀茂明神分一、一人為二春日明神分一、主神独無二其分度僧一、実是闕レ礼者也、去貞観二年擬レ奏二斯由一、依違不レ言、黙而至レ此、自レ彼以来、窅祟頻繁、遂不レ言者、恐神明怒、且夫毘盧遮那経者、八万法蔵之肝心、陀羅尼教之梁棟也、随経議釈七百余紙、文理尋深、局知難レ会、而旧置二年分一、只是一人、学徒乏少、大道猶哽、又頂輪王経者、真言之枢機、法城之門戸也、所以祖師積年耽習、其得二呪験一、仍於二延暦天子 聖躬不予之時一、依レ経修レ法、奉レ資二 宝祚一、山家之開泰、莫レ不レ頼二此功一、是以、東西弟子、至レ今勤修、円珍伏見、仏法中興、莫レ過二承和之聖代一、山神膺レ慶、偏仰二当時之鴻慈一、伏望蒙レ加二度者二人一、為二両神之分一、解二地主之結恨一、増二護国之冥威一、即以二三月十七日一、与二元初二人一、同共試度、自余事条、准二延暦弘仁両朝之格一、又受戒之後、毎日読二金剛般若経各一巻一、誓二-願両山一、奉二護一天一、十二年末、恒奏二巻数一、復試之日、除二金光明経一、並読二六巻止観一者、至レ此従レ之、須下准二延暦廿五年正月廿六日度年分僧格一、永以行上レ之、
『日本三代実録』仁和3年4月17日庚申条(887)諸衛厳警、縁二明日賀茂祭一也、
『日本三代実録』仁和3年4月18日辛酉条(887)賀茂祭如レ常、
『日本三代実録』仁和3年6月25日丁卯条(887)任二相撲司一、以二中納言従三位兼行左衛門督源朝臣能有、参議正四位下行皇大后宮大夫国経、参議正四位下近江権守藤原朝臣有実、参議正四位下陸奥出羽按察使源朝臣是忠、参議左大弁従四位上兼行勘解由長官文書博士橘朝臣広相、従四位上行美濃守源朝臣貞恒、従五位上守左近衛少将兼行讃岐介藤原朝臣高藤、左衛門権佐従五位上源朝臣昇、従五位上守左少弁兼行式部少輔藤原朝臣佐世、従五位上行左兵衛権佐藤原朝臣恒興、従五位下行左馬助藤原朝臣連並一為二左司一、中納言従三位兼行民部藤原朝臣山蔭、参議従三位源朝臣冷、参議正四位下行播磨守源朝臣直、参議正四位下行右衛門督兼美濃権守藤原朝臣諸葛、大蔵卿正四位下兼行源朝臣定有、従四位上行播磨権守源朝臣是貞、右近衛中将従四位下兼行木工頭讃岐権守平朝臣正範、右近衛少将正五位下源朝臣堪、正五位下右衛門佐平朝臣季式、従五位上守右兵衛佐源朝臣元、従五位下行右馬助在原朝臣載春、斎院長官従五位下兼守右少弁近江権介源朝臣希為二右司一、
『類聚三代格』2(年分度者事) 寛平7年10月28日官符(895)太政官符
応三四月十五日以前行二授戒一事
右得二延暦寺牒一偁、被下太政官今年三月七日下二当寺一牒上偁、如レ聞諸寺他宗応二得度一者、各就二便宜一労二-下宣旨一、直預二彼寺授戒一、論二之正道一、理不レ可レ然、大納言正三位兼行左近衛大将皇太子傅陸奥出羽按察使源朝臣能有宣、奉 レ勅、凡天台宗年分之外臨時度者、寺家具注二官符日月依止師主一、二月以前直申二-送官一、更待二符到一、三月之内令二授戒一畢、自レ今以後永為二恒例一者、謹案二牒旨一、二月言上之制雖レ限二臨時度者一、而三月授戒之期未レ降二年分度者一、若以二年分一准二臨時一者、授戒之期太早、若令三臨時随二年分一者、旧格之旨得レ宜、伏検二去貞観八年閏三月十六日格一云、寺家牒偁、太政官去年三月十五日下二治部省一符偁、検二旧例一、年分度者経二二箇年一、臨時度者経二三箇年一、然後令二受戒一者、然而山家年分既異二諸宗一、得業以後何更経レ年、凡年々試度年々受戒謂二之年分一、若不レ爾者恐有レ所レ闕、伏冀、依二先師式一当年授戒、則閉二山門一、誓二-護国家一、又雖二臨時度者一不三必経二三年一、縦雖レ少レ年而廿歳以上才行兼備堪レ為レ僧者、方加二試練一同聴二登壇一、謹請二処分一者、右大臣宣、奉 レ勅、年分度者依レ請、自余一同二去年三月十五日符一者、寺依二格旨一行来無レ闕、又於二臨時度者応二受戒一者、皆依二宣旨一乃聴二登壇一、而今官牒下レ寺制下依二宣旨一而授戒上、禁二-遏三月以後授戒一、官牒之旨最有二理致一、但三月受戒之期於二当寺一甚早也、所二-以然一者、当寺年分惣一十人、皆是 先皇御願也、就レ中二人奉二-為大小比叡両神一、三月十七日試度之、二人奉二-為賀茂春日両神一、三月廿五日試度之、然則余程無レ幾式月已迫、凡年分学生等、幼稚離レ郷長大住レ山、各勤二学業一更無二他計一、纔預二度例一乃求二戒具一、染二-縫三衣一買二-備一鉢一、非二是啻一二日之功一、授戒何畢二三月之内一、因レ是欲レ令三二人待二後年一者、得度既畢、属神分授戒、豈闕二年料一、望請、官裁当寺授戒之事、准二於貞観七年三月十五日格一、四月十五日以前定二戒日一行レ之、又臨時度者与二年分度者一同日令二受戒一、並十六日結二夏安居一鎮二-護国家一者、大納言正三位兼行左近衛大将皇太子傅民部卿陸奥出羽按察使源朝臣能有宣、奉 レ勅、依レ請、
寛平七年十月廿八日
『類聚三代格』1(祭并幣事) 寛平9年4月10日官符(897)太政官符
応レ科下-決被レ差二賀茂祭騎兵一致二拒捍一土浪人上事
右得二山城国解一偁、管八箇郡司解偁、件祭騎兵択二土浪人堪レ事一者差進既畢、而寄二事高家一不レ順二国仰一、若不二言上恐有二後責一、仍注二拒捍人交名一申送者、国検二案内一、承引之輩不レ及二廿人一、陳列之儀当レ致二闕怠一、望請 官裁、如レ此之類、不レ限土浪、不レ論二蔭贖一、行レ斎之外決二笞五十一、以懲二将来一者、中納言兼右近衛大将従三位行春宮大夫藤原朝臣時平宣、可レ贖之色、国司先勘二其過一、依レ法責贖、自 余依レ請、
寛平九年四月十日
『令集解』7(神祇令) 天神地祇条(凡天神地祇者神祇官皆依常典祭之)謂、天神者、伊勢、山城鴨、住吉、出雲国造斎神等類是也、地祇者、大神、大倭、葛木鴨、出雲大汝神等類是也、常典者、此令所載祭祀事条是也、釈無レ別也、自二大汝神一以上、古記亦無レ別也、穴云、依二常典一祭、謂四季所レ祠、及祭之調度、依二別式一備儲、大嘗毎世毎年等、謂二之常典一也、若調度斎日等、違失者、此神祇祭祀、違二常典一也、其大宰主神与二神祇官一、其祭可レ有二別式一、但天皇即位、惣祭二天神地祇一時、皆可二惣祭一也、跡云、常典、謂自二仲春一以下、季冬以上、是曰下依二常典一祭上之、朱云、皆依二常典一祭、謂在二諸国一社皆約レ此、為レ班二-給幣帛一者、但神祇官之不レ預諸国社者、不レ班二幣帛一耳、
『延喜式』3(臨時祭) 祈雨神祭条〔26〕祈雨神祭八十五座、並大、
賀茂別雷社一座、 賀茂御祖社二座、 松尾社二座、
稲荷社三座、 水主社十座、 樺井社一座、
木島社一座、 羽束石社一座、 乙訓社一座、
和伎社一座、 貴布禰社一座、已上山城国、
大和社三座、 大神社一座、 石上社一座、
太社二座、或作二多社一、 一言主社一座、 片岡社一座、
広瀬社一座、 龍田社二座、 巨勢山口社一座、
葛木水分社一座、 賀茂山口社一座、 当麻山口社一座、
大坂山口社一座、 胆駒山口社一座、 胆駒社一座、
石村山口社一座、 耳成山口社一座、 養父山口社一座、
都祁山口社一座、 都祁水分社一座、 長谷山口社一座、
忍坂山口社一座、 宇陀水分社一座、 飛鳥社四座、
飛鳥山口社一座、 畝火山口社一座、 吉野山口社一座、
吉野水分社一座、 丹生川上社一座、已上大和国、
枚岡社四座、 恩智社二座、已上河内国、
大鳥社一座、和泉国、
住吉社四座、 大依羅社四座、 難波大社二座、
広田社一座、 生田社一座、 長田社一座、
新屋社三座、 垂水社一座、 名次社一座、已上摂津国、
座別絹五尺、五色薄絁各一尺、糸一絇、綿一屯、木綿二両、麻五両、裹薦半枚、毎レ社調布二端、軾料、夫一人、丹生川上社、貴布禰社各二加黒毛馬一疋一、自余社加二庸布一段一、其霖雨不レ止祭料亦同、但馬用二白毛一、
『延喜式』3(臨時祭) 名神祭条〔28〕名神祭二百八十五座、
園神社一座、韓神社二座、已上坐二宮内省一、
賀茂別雷神社一座、賀茂御祖神社二座、松尾神社二座、
稲荷神社三座、貴布禰神社一座、鴨川合神社一座、
御井神社一座、葛野月読神社一座、木島坐天照御魂神社一座、
平野神社四座、梅宮神社四座、乙訓神社一座、
酒解神社一座、亦号二山崎神一、已上山城国、
春日神社四座、大和神社三座、石上神社一座、
多坐神社二座、或号二大社一、飛鳥神社四座、高市御県神社一座、
気吹雷神社二座、大神神社一座、太玉神社四座、
穴師神社一座、高屋安倍神社三座、大名持御魂神社一座、
丹生川上神社一座、金峯神社一座、鴨神社二座、
葛木御歳神社一座、葛木一言主神社一座、高鴨神社四座、
高天彦神社一座、葛木火雷神社二座、片岡神社一座、
火幡神社一座、広瀬神社一座、龍田神社二座、
平群坐紀氏神社一座、已上大和国、
恩智神社二座、枚岡神社四座、杜本神社二座、
飛鳥戸神社一座、已上河内国、
大鳥神社一座、和泉国、
住吉神社四座、大依羅神社四座、難波生国魂神社二座、
比売許曽神社一座、亦号二下照比売一、新屋神社三座、垂水神社一座、
広田神社一座、生田神社一座、長田神社一座、已上摂津国、
阿射加神社三座、多度神社一座、已上伊勢国、
太神社一座、或太作レ多、真墨田神社一座、大県神社一座、
熱田神社一座、日割御子神社一座、孫若御子神社一座、
高座結御子神社一座、已上尾張国、
角避比古神社一座、敬満神社一座、已上遠江国、
浅間神社一座、駿河国、
三島神社一座、伊古奈比咩命神社一座、物忌奈命神社一座、
阿波命神社一座、楊原神社一座、已上伊豆国、
寒川神社一座、相模国、
氷川神社一座、金佐奈神社一座、已上武蔵国、
安房神社一座、安房国、
玉前神社一座、上総国、
香取神宮一座、下総国、
鹿島神宮一座、大洗磯前薬師菩薩神社一座、
静神社一座、筑波山神社一座、吉田神社一座、
酒烈礒前薬師菩薩神社一座、稲田神社一座、已上常陸国、
小野神社二座、日吉神社一座、比叡神同、佐久奈度神社一座、
建部神社一座、川田神社二座、御上神社一座、
奥津島神社一座、伊香神社一座、水尾神社二座、或水作レ三、已上近江国、
仲山金山彦神社一座、美濃国、
南方刀美神社二座、穂高神社一座、生島足島神社二座、已上信濃国、
貫前神社一座、或作二抜鋒一、伊加保神社一座、赤城神社一座、已上上野国、
二荒神社一座、下野国、
都都古和気神社一座、苅田嶺神社一座、志波彦神社一座、
鼻節神社一座、志波姫神社一座、伊達神社一座、
東屋沼神社一座、零羊崎神社一座、拝幣志神社一座、
計仙麻神社一座、多珂神社一座、伊佐須美神社一座、
宇奈己呂和気神社一座、大高山神社一座、子負嶺神社一座、已上陸奥国、
大物忌神社一座、月山神社一座、已上出羽国、
若狭比古神社二座、若狭国、
気比神社七座、大虫神社一座、已上越前国、
気多神社一座、能登国、
伊夜比古神社一座、越後国、
出雲神社一座、小川月神社一座、麻気神社一座、
櫛石窓神社二座、已上丹波国、
大川神社一座、籠神社一座、大虫神社一座、
小虫神社一座、大宮売神社二座、已上丹後国、
粟鹿神社一座、夜夫神社二座、伊豆志神社八座、
山神社一座、戸神社一座、雷神社一座、
欘椒神社一座、海神社一座、已上但馬国、
宇倍神社一座、因幡国、
熊野神社一座、杵築神社一座、已上出雲国、
由良比女神社一座、宇受加命神社一座、水若酢命神社一座、
伊勢命神社一座、已上隠伎国、
海神社三座、粒坐天照神社一座、中臣印達神社一座、
家島神社一座、伊和神社一座、已上播磨国、
中山神社一座、美作国、
安仁神社一座、備前国、
吉備津彦神社一座、備中国、
速谷神社一座、伊都伎島神社一座、多家神社一座、已上安芸国、
住吉荒御魂神社三座、長門国、
丹生都比女神社一座、日前神社一座、国懸神社一座、
伊太祁曽神社一座、大屋都比売神社一座、都麻都比売神社一座、
鳴神社一座、伊達神社一座、志磨神社一座、
静火神社一座、須佐神社一座、已上紀伊国、
淡路伊佐奈岐神社一座、大和大国魂神社一座、已上淡路国、
大麻比古神社一座、天日鷲神社一座、已上阿波国、
粟井神社一座、讃岐国、
村山神社一座、大山積神社一座、野間神社一座、
阿治美神社一座、已上伊与国、
宗像神社三座、住吉神社三座、志加海神社三座、
八幡神社一座、筑紫神社一座、竈門神社一座、
美奈宜神社三座、已上筑前国、
高良玉垂命神社一座、豊比咩神社一座、已上筑後国、
八幡比売神社一座、豊前国、
田島坐神社一座、肥前国、
健磐龍命神社一座、肥後国、
住吉神社一座、兵主神社一座、月読神社一座、
中津神社一座、天手長男神社一座、天手長比売神社一座、已上壱伎島、
和多都美神社一座、和多都美御子神社一座、高御魂神社一座、
和多都美神社一座、太祝詞神社一座、住吉神社一座、已上対馬島、
座別絁五尺、綿一屯、糸一絇、五色薄絁各一尺、木綿二両、麻五両、裹料薦廿枚、若有二大祷一者、加二絁五丈五尺一、以二布一端一代二糸一絇一、
『延喜式』3(臨時祭) 致散斎条〔52〕凡祈年、賀茂、月次、神嘗、新嘗等祭前後散斎之日、僧尼及重服奪情従公之輩、不レ得レ参二入内裏一、雖二軽服人一、致斎并前散斎之日、不レ得二参入一、自余諸祭斎日、皆同二此例一、
『延喜式』3(臨時祭) 三社神税穀条〔79〕凡鴨御祖、別雷、熱田三社神税穀者、社用之外不レ得二他用一、雖レ充二社用一、申二弁官一待レ報、
『延喜式』6(斎院司) 定斎王条〔1〕凡天皇即位、定二賀茂大神斎王一、仍簡二内親王未レ嫁者一卜之、若無二内親王一者、依二世次一簡二諸女王一卜之、卜食訖遣二勅使於彼家一告二示事由一、神祇祐已上一人、率二僚下一随二勅使一共向、卜部解除、神部以二木綿一著二賢木一、立二寝殿四面及内外門一、木綿賢木所司備之、解除料等本家儲之、事畢賜レ禄、中臣、忌部以下各有レ差、其後遣二参議已上一人於上下両社一、奉レ幣告下定二斎王一状上、内蔵寮備レ幣、卜部一人随レ使、使就二川頭一解除向レ社、
『延喜式』6(斎院司) 忌詞条〔2〕凡忌詞、死称レ直、病称レ息、泣称二塩垂一、血称レ汗、完称レ菌、打称レ撫、墓称レ壌、
『延喜式』6(斎院司) 初斎院条〔3〕凡定二斎王一畢、即卜二宮城内便所一、為二初斎院一、即先臨二川頭一、祓潔乃入、
『延喜式』6(斎院司) 祓物条〔4〕祓物、
五色絁各四尺、塩二升、酒、米各一斗、鰒、堅魚、海藻各三斤、匏一柄、輦籠一腰、加レ朸、庸布二段、食薦二枚、黄蘗五斤、安芸木綿三両、凡木綿、麻各一斤、鍬二口、稲二束、夫二人、
右、依二前件一申レ官請用、其前レ禊二日、弁官率二院別当已下并陰陽寮及供奉諸司一到二河辺一、点二定其地一奏之、至二于期日一、斎王駕レ車赴向、走孺十人、車副十四人、手振十人、取物十人、装物韓櫃、盥器韓櫃各一合、担夫用二院今良一、供膳韓櫃三合、同雑器物二荷、衣服韓櫃二合、禄物韓櫃六合、担夫並用二衛士一、膳部六人、舎人二人、荷領十人、蔵人所陪従六人、院女別当已下並従二車後一、女別当已下蔵人已上乗二私車一、采女、女孺以下乗二馬寮車一、勅使参議一人、院別当一人、五位四人、六位四人並前駈、左右近衛、左右兵衛各二人、左右門部各二人、左右火長各十人供奉、左右京職官人率二兵士已上一迎候、山城国司率二郡司一候二京極路一、弁一人、史一人、史生二人、官掌一人、率二供奉諸司一、就二禊所一行事、斎王到レ幕臨レ流而禊、神祇官中臣進レ麻、宮主読二祓詞一、訖即賜二勅使已下饌并禄一、弁官録二見参一、付二院別当一、既而廻帰入二初斎院一、即卜二定供膳井一立二賢木一、
『延喜式』6(斎院司) 井祭料条〔5〕井祭料、
五色絁各四尺、絹一疋、糸一絇、倭文四尺、綿一屯、布一端、庸布二段、鍬二口、麻二斤、木綿大一斤、堅魚、鰒各四斤、腊四斤、海藻四斤、塩五升、酒、米各一斗、水戸一口、坏八口、匏一柄、柏五把、
右、神祇官申レ官請取、令二宮主祭一、
『延喜式』6(斎院司) 三年斎条〔6〕凡斎王於二初斎院一三年斎、畢其年四月始将レ参二神社一、先択二吉日一、臨レ流祓禊、供神料同二初度禊一、其儀斎王乗レ輿、輿者主殿官人率二史生一、前レ禊二日設候、輿長十人、黄衣、駕輿丁卌人、紺布衣、衛府十二人、左右近衛、兵衛、門部各二人、並着二本府青摺衫一、但門部便用二院門衛一、左右火長各十人、京職并山城国司祇承、同二初度禊儀一、駕馬女十六人、乳母二人、蔵人六人、女孺四人、小女四人、走孺十人、装物韓櫃、盥器韓櫃各一合、供膳韓櫃三合、同器物二荷、衣服韓櫃二合、禄物韓櫃六合、担夫卌六人、院今良二人、左右衛士卌四人、膳部六人、葡萄染布衣、膳所舎人二人、荷領十人、並退紅染布衣、蔵人所陪従六人、在二御車前一、女別当已下並乗レ車、事見二初度禊条一、勅使大納言、中納言各一人、参議二人、四位、五位各四人、内侍一人、弁一人、外記、史各一人、太政官史生一人、弁官史生二人、官掌一人、神祇、内蔵、縫殿、陰陽、大蔵、宮内、大膳、木工、大炊、主殿、掃部、造酒、主水、左右馬等官省職寮司供奉、禊事既畢賜二饌并禄一、勅使已下五位已上内蔵寮饗之、六位已下大膳職、訖即廻帰、便留二野宮一更賜レ禄、
『延喜式』6(斎院司) 大殿祭条〔7〕大殿祭、料与二神祇式大殿祭一同、
右、将レ遷二野宮一、神祇官請料レ先祭、
『延喜式』6(斎院司) 賀茂祭条〔8〕凡斎王毎年四月中酉日、参二上下両社祭一、先参二下社一、暫留二社外舎一脱二換衣裳一、更着二清服一、即乗二腰輿一、却二駕輿丁一令二輿長供一、就二社前左殿一、事畢出二社外一、駕二牛車一参二於上社一、先留二幄下一、次就二社前右殿一、勅使内蔵寮五位已上官一人、近衛府、馬寮五位已上官各一人、並左右更供、走馬十二騎、左右近衛更供、中宮、東宮使五位已上官各一人、内侍并命婦、蔵人、闈司各一人、中宮命婦、蔵人各一人、自余准二初度四月禊儀一、但加二腰輿一具、駕輿丁四人一、事見二儀式一、
『延喜式』6(斎院司) 両社幣条〔9〕上下両社幣帛料、
五色絁各四丈、三座座別一丈三尺三寸三分、
右、院司就二内蔵寮一請之、
『延喜式』6(斎院司) 忌火竈神祭料条〔10〕忌火竈神祭料、
五色絁各一尺、倭文一尺、庸布一段、鍬二口、木綿、麻各二斤、東鰒、堅魚、海藻各一斤、塩一升、酒、米各二升、坏二口、水戸一口、柏二把、匏一柄、
右、神祇官直移二所司一請取、令二宮主祭一、
『延喜式』6(斎院司) 尋常四月禊条〔11〕尋常四月禊、
右、供神料并儀式同下入二初斎院一之禊儀上、但無二勅使一、
『延喜式』6(斎院司) 六月禊条〔12〕六月禊、
右、宮主於レ院先供二御禊一、然後男女官臨二河辺一解除、但禊物饗料院司具備、
『延喜式』6(斎院司) 相嘗祭条〔13〕相嘗祭、若七月以前定二斎王一者当年祭之、八月以後者待二明年一祭、
神座二前、上下両社料、南面東上、
五色帛各四尺、酒二斗、供神料請二所司一、
『延喜式』6(斎院司) 相嘗祭装束料条〔14〕装束料、
小忌宣旨、采女各一人、別絹一疋、綿三屯、貲布一丈五尺、采女代七人絹三丈、貲布一丈五尺、並用二卜食者一、司人三人、貲布一丈五尺、使院司一人、卜食、絹一疋、調綿三屯、布一端、宮主絹一疋、綿一屯、舎人一人布一端、仕丁一人庸布一段、
右、毎年十一月上卯日鶏鳴、斎王潔斎、遥拝奉二幣於神社一、夕時設二上件神座於斎殿一、座別設二斎王供承座一祭之、奉幣使廻後、院司并宮主各給二衣一領一、明日夕給二酒饌於院裏男女一、賜レ禄各有レ差、初使至レ社奉幣之後、於二社前一給二両社禰宜、祝及忌子等禄一、同二四月祭例一、其用度料絹廿疋、調綿二百屯、布卅端預前申レ官請二大蔵省一、
『延喜式』6(斎院司) 竈神祭料条〔15〕竈神祭料、
五色帛各二尺、倭文二尺、木綿、麻各一斤、鰒、堅魚、腊、海藻、雑海菜各一斤、塩、米、酒各二升、坏四口、瓶一口、水戸一口、柏四把、匏一柄、
『延喜式』6(斎院司) 晦日解除料条〔16〕晦日解除料、
庸布一丈四尺、鍬二口、安芸木綿十両、麻八両、米、酒各二升、鰒、堅魚、海藻各一斤、稲二束、
右、祭并解除料、神祇官毎月直移二所司一請取、令二宮主祭祓一、但六月、十二月晦日、中臣奉レ麻、事畢賜レ禄、中臣被一条、宮主衣一領、
『延喜式』6(斎院司) 禊祭斎王料条〔17〕毎年禊祭料、
斎王料呉綾一疋、中緑絁一疋、両面二疋、敷レ道料、羅二疋、浅緑絹一疋、白縑五疋、白絹十疋、絹十疋、帛十疋、白紗四疋、紫糸四斤、紫革、緋革各二枚、蘇芳大三斤、茜大廿斤、紅花大廿斤、紫草百斤、楊筥十合、綿端表帖二枚、長各八尺、広五尺、両面端帖十二枚、八枚殿昼座土敷料、四枚二社座料、緑端帖十枚、寝殿座土敷料、綿端茵二枚、社座料、出雲筵四枚、二枚社料、二枚夏座料、絹二疋九尺八寸、几帳五具帷料、
『延喜式』6(斎院司) 画祭日服料条〔18〕画二祭日服并陪従女衣裳一料、金泥四両一分二銖、銀泥四両一分二銖、蘇芳大四斤、胡粉五斤三両三分、緑青三斤十三両、白緑一斤十二両二分、空青二斤三両二分、丹二斤二両、雌黄五両一分、同黄四両四銖、三月十三日付二内侍一奏請、
『延喜式』6(斎院司) 禊祭人給料条〔19〕人給料、
絹一百七十八疋三尺、卌疋禄料衾卅条料、卅疋小褂衣八十領料、八十六疋三尺宣旨以下走孺以上祭日装束料、二疋院司装束料、廿疋走馬衛府并楽人等禄料、帛十四疋、蔵人六人并乗馬女孺四人、采女一人、采女代三人、惣十四人装束料、白綾七疋四丈、六疋四丈宣旨以下女孺以上廿人袴表料、各二丈、一尺小女四人袴表料、各一丈五尺、赤紫絹四疋、二疋三丈走孺十人衣料、各一丈五尺、一疋三丈同袷襠料、各九尺、緋絹五疋五丈五尺、四丈五尺長官当色料、五疋走孺十人裳表料、各三丈、一丈同腰挟料、各一尺、藍染夾纈絹三疋、宣旨一人、乳母二人料、別一疋、白紗四疋一丈、三疋宣旨以下女孺以上廿人領巾料、各九尺、一疋一丈走孺十人同料、各七尺、糸卌斤、白赤各廿斤、祭雑用料、調綿四百八十屯十五両一分三銖、百八十屯禄料衾卅条、別六屯、十五両一分二銖浅縹地夾纈料絹十五疋二丈料、別一両、二百屯禊日禄料、百屯走馬衛府并楽人等禄料、細布八端三丈七尺、六端一丈二尺輿長已下荷領已上卅六人袴料、別七尺、三丈五尺走孺十人襪料、別三尺五寸、一端三丈禊日取物十人袴料、別七尺、紺細布四端八尺、禊日車副十四人、手振十人袴料、別七尺、紺調布十八端、四端乳母二人料、各二端、十四端駕馬女十四人料、別一端、布九十四端二丈五尺二寸、五端宣旨一人料、四端乳母二人料、各二端、五十端駕馬女已下合廿五人料、各二端、十七端六尺駕輿丁卌四人、今良二人、担夫卌四人、合九十人袴料、各八尺、二端四尺駕輿丁卌四人脛巾料、各二尺、一端一丈五尺二寸駕輿丁卌四人脚結料、各一尺三寸、十五端雑用料、庸布七百段、二百段諸司番上已下祭日禄料、五百段禊祭雑用料、蘇芳大一斤十四両二分四銖、浅縹地夾纈料絹十五疋二丈料、黄蘗大十六斤七両三分、十二斤七両三分浅縹地夾纈絹十五疋二丈料、四斤辛紅地彩色夾纈絹四疋料、紅花大十六斤、辛紅地夾纈絹四疋料、別四斤、茜大七斤十両二分四銖、浅縹地夾纈絹十五疋二丈料、別八両、黄櫨大七斤十両二分四銖、同絹十五疋二丈料、別八両、礬石十五両一分二銖、同絹十五疋二丈料、別一両、麩二斗、辛紅彩色夾纈絹四疋料、別五升、小麦三斗五升、二斗三升浅縹地夾纈絹十五疋二丈料、別一升五合、一斗二升辛紅彩色夾纈絹四疋料、別三升、紫草百斤、筑紫草染二雑物一料、銭八十九貫七十二文、一貫二百文宣旨装束料、六貫文蔵人六人料、各一貫文、二貫四百文乳母二人料、各一貫二百文、四貫文駕馬女孺四人料、各一貫文、二貫文小女四人料、各五百文、六貫文駕車女六人料、各一貫文、四貫文采女一人、代三人并四人料、各一貫文、十六貫百文輿長已下荷領已上并卌六人冠直、各三百五十文、十三貫二百文駕輿丁卌四人冠直、各三百文、五貫八百文夾纈料絹十九疋二丈藍染料、別三百文、六十四文辛紅彩色夾纈絹四疋料藁八囲直、別八文、六百九十文夾纈料薪廿三荷直、別卅文、四貫文灰廿斛直、別二百文、二貫三百六十文夾纈料絹十九疋二丈染作工卅九人小半功料、別六十文、一貫二百五十八文同相作夫卅九人小半功料、別卅二文、廿貫文雑用料、白米五十斛七斗八升六合、五十斛禊祭儲料、七斗八升六合夾纈相作夫卅九人小半食料、黒米五十斛七斗八升六合、五十斛禊祭儲料、七斗八升六合夾纈相作夫卅九人小半食料、油五斗、禊祭儲料并雑用料、塩四斛一升五合七勺、四斛禊祭儲并雑用料、一升五合七勺夾纈師并相作夫単七十八人大半料、別二勺、酢六升、辛紅夾纈料絹四疋料、別一升五合、酒一斛四斗三升六合、一斛二斗祭日料、二斗三升六合夾纈師并相作夫単七十八人大半料、別三合、鰒、堅魚、干鮭各百斤、禊祭料、雑魚三斛一斗五升七合、三斛禊祭料、一斗五升七合夾纈師并相作夫単七十八人大半料、別二合、海藻九斤十三両三銖、夾纈師并相作夫単七十八人大半料、別二両、熟食百五十九具、机四前、上折櫃廿一合、中折櫃廿一合、大笥廿五合、裹八十八具、
右、所司弁備、祭日供之、
『延喜式』6(斎院司) 頓給料条〔20〕頓給料、
絹五十疋、銭卅貫文、白米十斛、黒米廿斛、
右、斎王初定、依レ件請受、
斎王定畢所レ請雑物、
『延喜式』6(斎院司) 膳器条〔21〕膳器、
銀飯鋺一合、銀箸三具、銀盞一合、銀匕二柄、銀箸台二口、銀水鋺一口、銀唾壷一口、銀盤二口、白銅酒壷一合、白銅杓一柄、加二白銅盤一、白銅風炉一具、白銅火炉一具、白木韓櫃三合、加二榻并朸一、三尺朱漆台盤三前、加レ台、樽二口、
『延喜式』6(斎院司) 行具条〔22〕行具、
輿一具、腰輿一具、加二下案一脚一、大翳二枚、入二平文筥一加二雨皮一、小翳一枚、入二平文筥一加二雨皮一、大笠二枚、加二平文柄并志部一、銀捧壷二口、加二平文柄一、銀平文筥二合、行障六枚、大四枚、小二枚、金装車一具、斗帳二具、軽幄骨二具、蓋二条各方一丈四尺、料深紫、浅紫、黄帛各五丈六尺、緋帛一疋一丈二尺、同裏料緋帛四疋、紐五十六条緋帛一丈二尺六寸、綱三条料緋帛一疋、中幡料布一端二丈、袋一口料両面五尺四寸、裏料絹五尺四寸、帷八条、四条各十幅、四条各八幅、料赤紫帛十二疋、裏料帛十二疋、紐卅六条料紫帛四丈四尺、裏料帛四丈四尺、縫料緋糸一絇、糸四両、斑幔九条、二条高各五尺、七条高各八尺、料緋帛十五疋一丈八尺、黄帛十五疋二丈四尺、縹帛十一疋三丈七尺五寸五分、縫料縹糸一絇八両、黄糸一絇四両、糸六両、袋八口料紺布三端一丈四尺、裏料布三端一丈四尺、並申レ官請二所司一、更進二内侍一令二大蔵省縫備一、紺絁幕七条、緋裏、同色幔五条、縹裏、柱桁四具、請二木工寮一、納レ服赤漆韓櫃十合、請二大蔵省一、几帳十基、六基三尺、四基一尺五寸、櫛机一具、屏風六帖、五尺二帖、四尺四帖、沐槽一口、浴槽一口、
『延喜式』6(斎院司) 人給料条〔23〕人給料、
釜五口、一口受二五斗一、一口受二四斗一、三口受二三斗一、酒海三合、各受二二斗一、下食盤十枚、台盤七基、八尺一基、四尺六基、白銅箸四具、白銅匕八柄、白銅杓二柄、瓺卅口、薬袋卅四枚、
右、依二前件一、並随レ損申レ官請換、下条三年一請之色、同共請備、若遷替之日、併納二斎王家一、
『延喜式』6(斎院司) 時服料条〔24〕時服料、
絹卌疋、夏廿疋、冬廿疋、調布卌端、夏廿端、冬廿端、調綿二百屯、冬、
右、随レ時申レ官請二大蔵省一、
『延喜式』6(斎院司) 元日節料条〔25〕元日節料、
白米廿斛、糯米四斛、大豆、小豆各二斛、胡麻、粟各一斛、並請二大炊寮一、油六斗、請二主殿寮一、塩二斛、請二大膳職一、
右、預前申レ官請受、
『延喜式』6(斎院司) 冬料鋪設条〔26〕冬料鋪設、夏通二用四月祭料一、
錦端畳二枚、長各八尺、広五尺、両面端畳八枚、緑端畳十枚、出雲筵二枚、褥中幡料、
右、斎王座料、毎レ年申レ官請受、
緑端畳十枚、黄端畳十枚、
右、人給料、与二斎王座一共受用、
『延喜式』6(斎院司) 三年一請条〔27〕三年一請雑物、
暈繝錦四尺四寸、櫛机覆一条表料、両面六疋、五丈一尺供膳朱漆台盤三前覆表料、各一丈七尺、四丈二尺同赤漆韓櫃三合覆表料、各一丈四尺、四疋二丈七尺納レ服韓櫃十合深浅覆各十具料、緑絁三疋四丈五尺五寸、二丈五尺五寸牀一脚覆表料、三疋二丈納レ服韓櫃十合綱廿条料、緋絁六疋八尺、五疋五丈取物十人表衣料、別三丈五尺、一丈八尺大笠二蓋裏料、赤紫帛三疋五丈二尺、二疋斗帳夏帷二具紐表料、一疋五丈二尺冬帷二具同料、深縹帛四疋三尺五寸、四丈四尺夏壁代紐表料、一疋五丈二尺冬壁代同料、五丈二尺五寸夏幌五条紐表料、三丈五尺冬幌同料、黄帛七疋、五疋輿長十人衣料、別三丈、二疋雑使女四人衣料、別三丈、帛五疋、輿長十人衣裏料、絹二百卅八疋一丈七尺九寸、五丈一尺供膳台盤三前覆裏料、各一丈七尺、四丈二尺同赤漆韓櫃三合覆裏料、各一丈四尺、五丈一尺供膳台盤三前雨皮裏料、各一丈七尺、四丈二尺同韓櫃三合雨皮裏料、各一丈四尺、二丈取物筥二合袋裏料、四疋二丈七尺納レ服韓櫃十合深浅覆各十具料、一丈八尺大笠二蓋覆中幡料、二丈取物革筥二合雨皮裏料、二丈五尺五寸床一脚雨皮裏料、四丈五尺五寸腰輿一具雨皮三条裏料、四尺四寸櫛机一具覆裏料、三疋三丈膳部六人表衣料、十八疋輿長十人、取物十人、膳部六人、荷領十人合卅六人汗衫料、別三丈、十二疋同半臂料、別二丈、十二疋禊日車副十四人、手振十人汗衫料、別三丈、八疋同半臂料、別二丈、卅六疋四丈八尺斗帳二具夏帷料、二疋同帽額料、二疋同紐裏料、卅八疋三丈四尺冬帷料、二疋帽額料、一疋五丈二尺紐裏料、十九疋一丈二尺壁代夏帷料、四丈四尺紐裏料、五十一疋一丈二尺冬帷料、一疋五丈二尺紐裏料、九疋二丈幌夏帷五条料、五丈二尺五寸紐裏料、八疋冬帷料、三丈五尺紐裏料、調綿三百廿三屯、百廿八屯斗帳冬帷二具料、百六十屯冬壁代十八条料、卅五屯冬幌五条料、糸二絇、縫二冬斗帳帷并幌一料、油絁三疋五丈二尺、五丈一尺供膳台盤三前雨皮料、各一丈七尺、四丈二尺同韓櫃三合雨皮料、各一丈四尺、一丈八尺大笠二蓋覆料、三丈大翳二枚雨皮料、二丈取物筥二合雨皮料、二丈五尺五寸床一脚雨皮料、四丈五尺五寸腰輿一具雨皮三条料、紺細布卅四端廿二端駕輿丁卌四人表衣料、別二丈、十二端禊日車副十四人、手振十人衣料、別二丈、細布廿三端二丈四尺、五端荷領十人表衣料、別二丈、八端二丈禊日車副十四人、手振十人、取物十人布帯料、別一丈、五端取物十人表衣料、別二丈、四尺漬二紅花一袋四口料、五端輿長十人、荷領十人布帯料、各一丈、紺調布四丈、今良二人表衣料、別二丈、布廿八端二丈四尺、五端一丈駕輿丁卌四人布帯料、毎二二人一一丈、二端一丈六尺納レ服韓櫃綱廿条中幡料、廿端四丈担夫卌四人衣料、別二丈、六丈貲布十五端二丈四尺、駕輿丁卌四人汗衫料、別二丈一尺、薪卌荷直、十七荷染二斗帳帷并壁代黄白橡一料、三荷染二斗帳帷一具辛紅花一料、廿荷染二雑色人并担夫衣一料、灰十四斛二斗直、十斛二斗染二斗帳壁代帷一料、三斛染二雑色人及担夫卌四人衣一料、苅安草八十二囲半、卅一囲半染二壁代十八条表絹廿疋四丈一料、廿七囲染二幌七条表絹五疋四丈一料、十囲染二斗帳帷一料、十二囲染二雑色人衣一料、請二内蔵寮一、藁卅七囲直、練レ絹并染二紅花一料、紅花大六十九斤、六十一斤染二斗帳壁代并雑色人衣一料、八斤染二禊日取物十人表衣一料、請二大蔵省一、黄蘗大卅斤、染二斗帳壁代帷絹一料、請二大蔵省一、銭十七貫七百卅文、九貫八百十文染二斗帳一具、壁代十八条、幌七条表料絹卅二疋四丈二尺一藍料、疋別三百文、七貫七百廿文、染二同裏料浅縹絹廿五疋四丈四尺一料、疋別三百文、一百廿文雇夫四人功料、別卅文、八十文雇女四人功料、別廿文、酢六斗一升、五斗六升染二斗帳絹辛紅一料、五升染二雑色人装束一料、白米六斛四斗二升八合、二斗斗帳二具帷并帽額絹粥飼料、一斗雑色人衣同料、六斛縫手宮人単五百人食料、別一升二合、八升雇夫四人食料、別二升、四升八合同女四人食料、別一升二合、酒二斛四升、二斛縫手宮人単五百人料、別四合、二升四合雇夫四人料、別六合、一升六合同女四人料、別四合、魚一斛二升、一斛縫手宮人単五百人料、別二合、一升二合雇夫四人料、別三合、八合同女四人料、別二合、滓醤五斗二升、五斗縫手単五百人料、別一合、一升二合雇夫四人料、別三合、八合同女四人料、別二合、朝使已下女孺已上座料畳八十枚、十枚緑端、十枚黄端、卅枚東筵、卅枚周防筵、並裏レ端、茵十二枚、二枚紫端、五枚緑端、五枚黄端、五尺牀一脚、上下社儲料、樽四口、各受二二斗一、加レ杓、中取廿脚、白木灯炉三具、食床十前、灯台十基、独床子六脚、中床子十四脚、大笠二蓋、楊筥六合、簀卌枚、蓑百十四領、帖笠九十八枚、馬蓑十六領、駕馬女料、螻蓑九十八領、帖笠九十八枚、輿長已下料、請二内蔵寮一、
『延喜式』6(斎院司) 松明条〔28〕凡斎王参二上下両社祭祭一日、入レ夜山城国儲二松明一、掾若目一人祗承、其名簿前一日進レ官、
『延喜式』6(斎院司) 雑色人衣服料条〔29〕凡雑色人男卌人、女卌一人衣服料絹一百九十二疋三丈、七十一疋夏料、百廿一疋三丈冬料、調綿二百八十三屯、冬料、六丈貲布廿三端五丈五尺、女卌一人夏料、布八十二端、女卌一人冬料、並請二大蔵省一、
『延喜式』6(斎院司) 作手等衣服料条〔30〕凡作手八人衣服料調綿卅二屯、冬料、布五十六端、廿四端夏料、卅二端冬料、客作児二人衣服料庸布六段、二段夏料、四段冬料、庸綿八屯、冬料、並請二大蔵省一、其食料黒米六斗、請二民部省一、塩六升、請二大膳職一、
『延喜式』6(斎院司) 陣屋炬舎条〔31〕凡門衛陣屋本府造之、炬舎木工寮造之、
『延喜式』6(斎院司) 斎院修理条〔32〕凡院裏官舎、木工寮修理之日、院司臨監、若不レ満二十年一、令レ致二破損一者、司官五位已上奪二位禄一、六位已下奪二季禄一、
『延喜式』7(践祚大嘗祭) 斎院祭神条〔10〕凡斎郡之斎院祭神八前、卜部二人、両国各給二明衣并被一、
『延喜式』11(太政官) 賀茂祭条〔72〕凡賀茂二社、四月中申酉祭、斎内親王向レ社、史一人、左右史生各一人、官掌一人、向二祭所一検二-校諸事一、山城国司預録二祭日一申レ官、差二勅使一令レ奉レ幣、并有二走馬一、事見二内蔵及左右馬寮式一、前一日大臣侍二殿上一、召二諸衛府次官已上一、於二殿前庭一而仰二警固事一、後日解陣亦准レ此、並事見二儀式一、
『延喜式』11(太政官) 賀茂斎王条〔89〕凡天皇即レ位、定二賀茂大神斎王一、仍簡二内親王未レ嫁者一卜定、事見二斎院式一、
『延喜式』12(中務) 女官衣服条〔81〕女官雑用料、
賀茂祭、四月、
使命婦二人、女孺二人装束料、帛十疋、絹十六疋、細布五端、紺細布廿端、紅花十四斤、裙四腰、直、
春日祭、春冬同、
使命婦一人、女孺三人装束料、絁十一疋、綿十四屯、紺細布十四端、
大原野祭、春冬同、
使命婦一人、女孺三人装束料、絁十一疋、綿十四屯、紺細布十四端、
六月神今食八姫装束料、絹八疋、大嘗会「絹」十疋、綿廿屯、通二-用十二月神今食一、
「五月五日」
命婦已下、今良已上装束料、絹一百六十九疋、調布一百端、貲布二百十六端、八丈為レ端、縹布廿五端、殿司、灯守四人、掃司女孺十一人装束料、縹絁八疋三丈、人別三丈、火炬二人、黄絁一疋、人別三丈、
皇后宮定額女孺九十人装束料、絁卌五疋、貲布卅九端三丈、四丈為レ端、今良十五人装束料、絹七疋三丈、人別三丈、縹布七端二丈、人別二丈、
新嘗会、
命婦已下今良已上装束料、絹三百卅八疋、綿六百七十六屯、調布六百卅一端、縹布廿五端、殿司灯守四人、
掃司女孺十一人装束料、縹帛八疋三丈、人別三丈、帛八疋三丈、人別三丈、綿卅四屯、人別二屯、火炬二人、黄帛一疋、人別三丈、帛一疋、人別三丈、綿四屯、人別二屯、
東豎子四人装束料、人別緋絁四丈、帛二疋、綿四屯、元日亦准レ此、但五月五日帛一疋、貲布四丈、紅花小二斤、並依二内侍司移一請充、
皇后宮女孺九十人装束料、絁九十疋、綿一百八十屯、調布一百八十端、今良十五人装束料、絁十五疋、人別一疋、綿卅屯、人別二屯、縹布七端二丈、
『延喜式』12(内記) 宣命紙条〔4〕凡宣命文者、皆以二黄紙一書之、但奉二伊勢太神宮一文、以二縹紙一書、賀茂社以二紅紙一書、
『延喜式』12(内記) 賀茂祭宣命条〔5〕凡賀茂祭日宣命、前一日書、付二内侍一奏之、
『延喜式』13(中宮) 賀茂祭条〔18〕凡四月中酉、奉二賀茂上下松尾三社幣一使者、五位已上官一人、若大夫帯二参議一不レ須、史生一人、已上啓二名簿一、舎人二人、仕丁六人、
其日遅明、使史生率二舎人等一、裹二幣六捧一、社別二捧、賀茂上下社別五色帛各六尺、糸一絇、曝布一端、木綿、麻各大二斤、已上幣料、商布一丈三尺五寸、裹レ幣料、五色絁各三疋、阿礼三具料、楊筥三合、盛二阿礼一料、絁一疋、糸一絇、曝布一端、已上禰宜軾料、絁一疋、曝布一端、已上祝軾料、松尾社、五色絁各六尺、糸一絇、曝布一端、木綿、麻各大二斤、已上幣料、商布八尺、裹レ幣料、絁一疋、糸一絇、曝布一端、已上禰宜軾料、絁一疋、曝布一端、已上祝軾料、使官率二史生等一、令レ持二幣帛一、入レ自二玄暉門一、安二左腋庭門案上一、預樹二高案二脚於簀二枚上一、史生及舎人惣八人、共挙二幣案一進、使官相副扶之、付二蔵人一候二常寧殿東一、次宮主奉二御麻一、解除畢退出、即蔵人持レ案授、使者受取罷出、更於二庁前一宮主解除、畢使官已下向二内蔵寮一就二庭座一、松尾社禰宜祝候二於内蔵寮一、史生一人、舎人一人、各捧二幣帛一、進授二禰宜等一、即内蔵寮給レ饌、畢各達二前所一、
装束料、
絹一疋、纐纈三丈、裙表料、帛一疋、三丈裙裏料、三丈下裙料、表裙一腰、直、帯一条、直、沓一両、直、紅花四斤、已上上社物忌料、下社亦同、絹五疋、細布五端、曝布五端、当色一具、已上五位使料、若四位者加二絹二疋一、絹一疋、細布五端、曝布一端、当色一具、已上史生料、八丈貲布二端、紅花二斤、已上舎人二人料、紺布四端、袍料、曝布一端三丈、一丈六尺布帯料、以二八尺一充二二人一、一端四尺袴料、人別一丈四尺、並持レ幣仕丁六人料、細布二端、調布六端、紅花二斤、左右馬寮御馬騎者喚継二人料、絹廿六疋五丈、縑二疋四丈三尺、紅花卌八斤、紗一疋、細布七端、銭十七貫六百廿文、已上命婦料、絹八疋、一疋五丈二尺、紗四丈、細布四端二丈、紅花卅八斤、銭十貫三百廿文、已上蔵人料、
右依二前件一、男官料請二大蔵内蔵等省寮一、但賜二馬人并女使一料、以二職庫物一充之、
『延喜式』13(大舎人) 月次祭条〔8〕凡六月十一日、供二月次祭所一小忌官人一人、史生一人、舎人十人申レ省、祭日早朝大忌官人二人五位一人、六位一人、向二神祇官一、日中小忌人等向二宮内省一卜食、若有二不合者一、更差定レ数、戌時幸二於斎院一、御輿長并副鈴用二小忌人一、亥時進二御畳一舎人叫レ門、其詞曰、御畳進止某親王門候止申、寅時退二御畳一叫レ門、同二亥時一、畢即車駕還レ宮、明旦依二神祇官一叫レ門、其詞曰、鎮二御殿一事申給止宮内省輔姓名門候止申、鎮二御殿一畢小忌人向二宮内省一、解祭畢廻レ寮、
『延喜式』17(内匠) 賀茂装束条〔33〕賀茂初斎并野宮装束、
斗帳二具、白木一具、漆一具、几帳十基、三尺六基、一尺五寸四基、
屏風六帖、五尺二帖、四尺四帖、金装車一具、小行障二枚、大翳二枚、入二平文筥一、大笠柄二枚、平文、加二志部一、銀捧壷二口、加二平文柄并志部一、平文筥二合、輿一具、腰輿一具、屏繖二枚、大行障四枚、小翳筥一合、軽幄骨二具已上料物単功、並見レ上、
櫛机一具長一尺五寸、広一尺三寸、足高九寸、料、波多板一枚、檜榑半村、阿膠十両、炭二斗一升、切釘廿隻、漆一升二合、掃墨三合、
焼土三合、綿六両、絹一尺、手作布一尺、単功九人、木工六人、漆三人、
膳櫃三合、加二榻并朸一、樽一荷、銀飯鋺一合、銀水鋺一合、銀盞一合、銀盤二口、以上料物単功、並見レ上、
銀箸三具各長八寸四分、料、銀小十二両、和炭三斗、長功三人、中功四人半、短功六人、
銀匕二柄料、銀小十八両、和炭二斗、油一合、長功四人、中功六人、短功八人、
銀箸台二口料、銀小卌八両、炭四斗、和炭一斛、油二合、塩二升、長功八人、中功十人、短功十二人、
銀唾壷一口口径八寸五分、料、銀小七十八両、炭二斗、和炭一石五斗、油一合五勺、鉄半廷、長功五人、中功六人、短功七人、
白銅酒壷一合、受二一斗一、料、白銅大廿斤、油五合、鉄三廷、炭卅斛、和炭一斛、信濃布一丈五尺、麻縄一了、伊予砥一顆、長功五十人、中功五十五人、短功六十人、
白銅杓一柄加レ盤、料、白銅大十両、炭四斛、油一合、信濃布一丈、長功十人、中功十二人、短功十四人、
白銅風炉一具料、白銅大三斤、炭四斛、油一合五勺、信濃布七尺五寸、長功十人、中功十二人、短功十四人、
白銅火炉一具料、白銅三斤、炭四斛、油一合五勺、信濃布七尺五寸、長功十人、中功十二人、短功十四人、
朱漆台盤三面各三尺、加レ台、料、漆九升、朱砂卅両、掃墨三升、油五合、焼土五升、綿三屯、絹七尺、細布一丈二尺、信濃布一丈二尺、調布一丈五尺、伊予砥一顆、青砥二枚、阿膠十両、炭一斛、単功廿五人、
酒海三合、各受二二斗一、二合料、漆四升、朱砂十六両、貲布一丈、絹、布各四尺、綿一斤、油四合、炭一斛、一合料、漆二升、
掃墨七合、焼土八合、貲布五尺、絹、布各一尺五寸、油一合、炭二斗五升、単功十三人、朱漆八人、墨漆五人、
下食盤十枚各方一尺七寸、料、漆五升、朱砂十二両、掃墨二升、焼土二升、油三合、貲布一丈、絹六尺、綿三屯、炭一斛、単功卅人、
白銅箸四具料、白銅大八両、細布三尺、信濃布五尺、油二合、炭一斛、長功十二人、中功十四人、短功十六人、
白銅匕八柄料、白銅大九十六両、鉄一廷半、細布五尺、信濃布七尺、油四合、炭八斗、長功六十四人、中功七十二人、短功八十人、
白銅杓二柄、台盤七面、八尺一面、四尺六面、薬袋卅四枚、已上人給料、但白銅杓已下料物単功、見レ上、
『延喜式』18(式部上) 国司預節条〔10〕凡国司五位已上、就二朝集使一入京者、皆聴レ預二節会一、但五畿内及近江、丹波等国司者、雖レ非レ奉レ使亦聴二若元日不レ朝者、並不レ聴也、預参一、其賀茂両社祝、禰宜若帯二五位一者亦聴、
『延喜式』18(式部上) 把笏条〔142〕凡内外諸司史生官掌省掌台掌職掌坊掌寮掌使掌司掌伊勢太神宮司、同度会神宮禰宜、賀茂二社禰宜、祝、住吉神主、宇佐宮司、祝、気比神宮司、筑摩長等、以二雑色人一補之、並把笏、
『延喜式』18(式部上) 馬料条〔279〕馬料、
神祇官十人、伯六貫、大副四貫、少副二貫五百、若叙二五位一者四貫、大祐、少祐各二貫五百、大史、少史各二貫二百、宮主二貫五百、諸宮主准レ此、卜長上各二貫二百、
右以二神税一給之、
一位官五十貫、二位官卅貫、正三位官廿貫、従三位官十五貫、正四位官七貫、従四位官六貫、正五位官五貫、従五位官四貫、六位官二貫五百、七位官二貫三百五十、八位官二貫二百、初位官二貫五十、
太政官廿九人、一位官一人、二位官二人、正三位官二人、従三位官三人、従四位官二人、正五位官四人、従五位官三人、六位官六人、七位官六人、中務省卅二人、正四位官一人、正五位官二人、従五位官一人、六位官四人、七位官一人、八位官三人、内記六位官二人、七位官一人、監物従五位官二人、六位官四人、七位官四人、初位官一人、主鈴七位官二人、八位官二人、典鑰七位官一人、八位官一人、中宮職八人、従四位官一人、従五位官一人、六位官三人、八位官三人、大舎人寮四人、従五位官一人、六位官一人、七位官一人、八位官一人、図書寮四人、従五位官一人、六位官一人、七位官一人、八位官一人、内蔵寮八人、従五位官一人、六位官二人、七位官二人、八位官三人、縫殿寮四人、従五位官一人、六位官一人、七位官一人、八位官一人、陰陽寮十一人、従五位官一人、六位官一人、七位官九人之中允一人、陰陽博士二人、暦博士一人、天文博士一人、漏刻博士一人、陰陽師二人、初位已上官一人、内匠寮六人、従五位官一人、六位官一人、七位官二人、八位官二人、式部省七人、正四位官一人、正五位官一人、従五位官一人、六位官二人、八位已上官二人、大学寮十九人、従五位官三人、六位官一人、助博士二人、七位官十三人之中允一人、博士十一人、八位官一人、治部省六人、正四位官一人、従五位已上官一人、六位官二人、八位已上官二人、雅楽寮八人、従五位官一人、六位官一人、七位官一人、八位官五人之中属一人、歌師四人、玄蕃寮四人、従五位官一人、六位官一人、七位官一人、八位官一人、諸陵寮三人、六位以上官一人、七位官一人、八位官一人、民部省十一人、正四位官一人、正五位官一人、従五位官一人、六位官四人、七位官一人、八位官三人、主計寮十人、従五位官一人、六位官一人、七位官三人、八位官五人、主税寮八人、従五位官一人、六位官一人、七位官二人、八位官四人、兵部省六人、正四位官一人、従五位已上官一人、六位官二人、八位已上官二人、刑部省十四人、正四位官一人、従五位已上官一人、六位官二人、八位已上官二人、判事正五位官二人、従六位官四人、八位已上官二人、大蔵省六人、正四位官一人、従五位已上官一人、六位官二人、八位已上官二人、織部司一人、六位已下初位已上官、宮内省七人、正四位官一人、従五位已上官三人、八位已上官三人、大膳職三人、従五位已上官一人、七位已上官一人、八位官一人、木工寮十人、従五位官一人、六位官一人、七位官二人、八位官六人之中属算師各二人、大小工各一人、大炊寮三人、従五位官一人、七位已上官一人、初位已上官一人、主殿寮四人、従五位官一人、六位官一人、七位官一人、初位已上官一人、典薬寮十五人、従五位官一人、六位已下官人之中侍医四人、助允各一人、初位已上官一人、七位官七人之中医博士一人、掃部寮四人、従五位官一人、六位官一人、七位官一人、初位已上官一人、内膳司五人、六位官一人、七位官三人、初位官一人、造酒司二人、六位已下初位已上官、采女司一人、六位已下初位以上官、主水司一人、六位以下初位以上官、弾正台七人、従三位官一人従四位官一人、正五位官一人、六位官二人、八位以上官二人、春宮坊八人、従四位官一人、従五位官一人、六位官三人、八位官三人、左京職八人、従四位官一人、従五位官一人、六位官一人、七位官二人、八位官三人、右京職准レ此、修理職八人、従四位官一人、従五位官一人、六位官三人、七位官一人、八位官二人、勘解由使九人、従四位官一人、従五位官二人、六位官三人、七位官三人、斎宮寮廿四人、従五位官一人六位官四人、七位官七人、初位官十二人、斎院司四人、従五位官一人、六位官一人、七位官一人、八位官一人、
『延喜式』21(玄蕃) 新羅客条〔94〕凡新羅客入朝者、給二神酒一、其醸酒料稲、大和国賀茂、意富、纏向、倭文四社、河内国恩智一社、和泉国安那志一社、摂津国住道、伊佐具二社各卅束、合二百卌束送二住道社一、大和国片岡一社、摂津国広田、生田、長田三社各五十束、合二百束送二生田社一、並令二神部造一、差二中臣一人一、充二給レ酒使一、醸二生田社一酒者、於二敏売崎一給之、醸二住道社一酒者、於二難波舘一給之、若従二筑紫一還者、応レ給二酒肴一、便付二使人一、其肴惣隠岐鰒六斤、螺六斤、腊四斤六両、海藻六斤、海松六斤、海菜六斤、盞卅八口、匏十柄、案六脚、被レ責還者不レ給、蕃客従二海路一来朝、摂津国遣二迎船一、王子来朝遣二一国司一、余使郡司、但大唐使者迎船有レ数、客舶将レ到二難波津一之日、国使著二朝服一、乗二一装船一、候二於海上一、客船来至、迎船趨進、客舶迎船比レ及二相近一、客主停レ船、国使立二船上一、客等朝服出立二船上一、時国使喚二通事一、通事称唯、国使宣云、日本爾明神登御宇天皇朝庭登、某蕃王能申上随爾参上来留客等参近奴登、摂津国守等聞著氐、水脉母教導賜幣登宣随爾、迎賜波久登宣、客等再拝両段謝言、訖引レ客還レ泊、
『延喜式』26(主税上) 賀茂祭食料条〔43〕凡賀茂祭使食料、以二山城国正税五百廿束一充之、
『延喜式』30(大蔵) 賀茂祭条〔11〕四月賀茂祭日立二七丈幄四宇、五丈幄八宇一懸レ幔上社七宇、下社五宇、給二諸司一禄料庸布二百段、送二斎院司一、令二班給一之、
『延喜式』31(宮内) 斎王祓禊条〔25〕凡賀茂斎内親王四月祓禊之日、丞録各一人、史生一人、省掌一人、率二供奉諸司一参二祓所一、
『延喜式』32(大膳上) 斎院給食料条〔10〕賀茂神祭斎院陪従等人給食料、
東鰒、堅魚、隠岐鰒、煮堅魚各五斤四両、雑平魚、雑魚楚割各七斤十四両、鯖百十三隻、海藻十六斤二両、塩八升五合九勺、醤四升二合、酢、韲酒各一升、滓醤三升、醤滓一升五合、生栗子一斗六升八合、搗栗子八升四合、干柿子十連半、芋子八升四合、笋子廿一把、折櫃卌二合、大笥廿五合、覆敷折櫃廿一合料調布一端二丈一尺、薪五荷、炭五斗、青柏六俵、鮮物菓子、直布五端、干柏二俵、平坏二百五十二口、窪坏、韲坏各八十四口、食薦卌枚、筋竹一囲、炬油二升、白米三斗、膳部等食料、夫十五人、京職所レ進、黒米一斗八升、夫食料、
『延喜式』32(大膳上) 斎院別当以下条〔11〕同祭斎院司別当已下四人食料、
東鰒、堅魚、隠岐鰒、煮堅魚、平魚楚割各十二両、鮨、腊各四斤、塩六合、韲酒、酢各六合、生栗子四升、笋子八把、覆瓫柏廿把、鮮物菓子、直布五端、食薦四枚、醤六合、片盤廿四口、窪坏十六口、韲坏十六口、覆二-敷案四脚一料曝布一端二尺、青柏一荷、薪一荷、炭二斗、夫四人、京職所レ進、黒米四升八合、塩四勺八撮、醤滓四合、並夫食料、
『延喜式』33(大膳下) 賀茂斎王月料条〔30〕賀茂斎内親王月料、
東鰒卅斤、堅魚廿九斤十両、堅魚煎汁、紫苔一斤十三両、醤、塩、味醤各一斗五升、海藻十斤十両、
同院雑給料、塩月別二斗二升六合、小月二斗一升八合四勺七撮、
『延喜式』34(木工) 著幣帛木料条〔4〕著二幣帛一木卅六枝、長各八尺、方一寸五分、
四枝賀茂上下祭料、各二枝、二枝松尾、四枝春日、四枝率川、二枝大原野、四枝大神、二枝山科、四枝当麻、二枝杜本、二枝当宗料、就中四枝賀茂臨時祭、二枝同松尾祭料、
『延喜式』35(大炊) 親王已下月料条〔35〕親王已下月料、
無品親王、内親王、妃、夫人、女御、日米各五升、幼親王乳母、日二升、乳母子各五斗、小月亦同、七歳以後停止、
賀茂斎内親王料、日米一斗、稷八合、同院雑色人料、米月廿二石六斗八升、小月廿一石九斗二升四合、
平野古開久度三神、各物忌一人、日一升二合、松尾社物忌一人料、米三斗六升、小月三斗四升八合、
采女卅七人料、米十八石九斗、小月十八石二斗七升、中宮女孺廿七石六斗、小月亦同、女官厨一百五十六石、小月一百五十石七斗六升二合、内教坊米廿石、小月十九石三斗三升三合六勺、
諸得業生、人別日二升、観天文生、日二升、漢語師、日一升二合、
大蔵縫女卅人、惣日四升、長人、日五升、
中務史生十人、省掌一人、監物史生四人、大学寮官人六人、博士十五人、史生四人、学生五十人、民部史生廿人、宮内史生十人、春宮坊史生二人、舎人五十人、左右近衛府生各六人、番長三人、近衛二百人、左右兵衛府生各二人、番長二人、兵衛百五十人、左右衛門府生各二人、門部五十人、
右依二前件一、人別日米一升、但大学官人、博土并諸衛府生以下日各二升、大学史生学生日各一升二合、
『延喜式』36(主殿) 賀茂神祭料条〔5〕賀茂神祭料、
油二升、油瓶一口、灯盞八口、灯炷布二寸、続松五十把、
『延喜式』36(主殿) 諸司年料油条〔12〕諸司所レ請年料、
典薬寮胡麻油四升一合、煎二供御地黄一料、猪膏二百十三斤十五両、造二-供御并中宮春宮坊御薬一及人給料、
大膳職胡麻油一升二合、供御并中宮御索餅糖料、
内蔵寮胡麻油二斗八升七合、麻子油二升五合、二升二合伊勢太神宮御鞍二具用途料、六升五合、麻子油二升五合造二年料御靴并糸鞋等一料、二斗盛二山陵并所々荷前一料、
図書寮油三升、二升元日御并中宮御装束所灯料、一升奉写年料新翻仁王経所料、
陰陽寮油一斛五斗九升三合、漏刻所料、自二三月一迄二八月一六箇月夜別四合、自二九月一迄二二月一六箇月夜別五合、
兵庫寮胡麻油六合、五合修二-理甲一百領一料、一合造二大祓太刀并伊勢神宮祭鞍一料、猪膏五合、同造二大祓太刀并神宮鞍一料、猪膏小廿斤、造二鼓吹生等薬一料、
隼人司荏油一斛三斗八升、造二年料油絁一料、
内匠寮油三升五合、造二年料革筥一料、猪膏十五斤、造二雑工等薬一料、
木工寮胡麻油一升一合、猪膏五合、並造二年料雑物一料、猪膏卅斤、造二雑工已下仕丁已上薬一料、
縫殿寮油五升、御服所并寮中十二月晦夜料、
造酒司油四升、御酒殿十二月晦夜料、
左右馬寮車油三斗八升三合、寮別一斗九升一合五勺、飼二青御馬一所料、油二斗六升四合、寮別一斗三升二合、季料胡麻油三斗二升、寮別一斗六升槾椒油一斗六升、寮別八升猪膏六升四合、寮別三升二合、
乳牛院油一升、十二月晦夜料、
画所油五升、
作物所油三斗、
内侍司、命婦已下女孺已上、十二月晦夜雑給料油六斛五斗、二石中宮料、
侍従所月料油三升、小月二升九合、
賀茂斎院料油一斛一斗、正月元日節料六斗、四月御祓料五斗、
賀茂斎内親王月料二斗一升、小月減二七合一、
親王并妃夫人各月別九升、小月減二三合一、
女御六升、小月減二二合一、
親王頓料六斗、下二-知名号一之日所レ行、
『延喜式』38(掃部) 賀茂奉幣条〔11〕四月奉二賀茂神幣帛一使座、於二内蔵寮一設之、又設二座於上下社一、其軽幄二具、牀二脚、屏風四帖、畳四枚、預請二斎院一、事訖返送、
『延喜式』40(造酒) 賀茂祭料条〔19〕賀茂神祭料、
酒一石二斗、絁四尺、篩料、暴布三丈二尺、二尺酒台二具折敷料、八尺缶四口覆料、二丈二尺机二前覆并折敷料、缶四口、坩二合、酒台二具、窪坏卅口、盤廿五口、匏四柄、八足机二前、
『延喜式』40(造酒) 賀茂斎王料条〔28〕賀茂斎内親王料、
日酒八升、諸節別二斗、酢五合、
『延喜式』42(左右京) 賀茂斎王祓条〔3〕凡賀茂斎内親王祓除、及向二斎院一者、進属史生各一人、率二坊令二人、兵士十人一前駆、預営二-作道橋泥塗等一、
『延喜式』48(左右馬) 賀茂祭走馬条〔10〕凡賀茂二社祭走馬十二疋、松尾二疋在二此内一也、馬別韁鞚料調布四尺二寸、表腹帯七尺、結二額髪一糸二両、余祭馬装准レ此、其使五位已上官一人、使者装束之数見二内蔵式一、皇后宮走馬二疋、馬装同レ上、並二寮逓供奉、余祭准レ此、又女騎料四疋、内侍已上料、前レ祭二日経二御覧一、両寮之間点二-定能否一、斎院女騎料八疋、属馬医史生各一人、共預供之、
『本朝月令』・4月中酉賀茂祭事中酉賀茂祭事、
秦氏本系帳云、正一位勲一等賀茂大神社、賀茂者、日向曽之峯天降坐神、賀茂建角身命也、神倭石寸比古之御前立上坐而宿二-坐大倭葛木山之峯一、自レ彼漸遷、至二山代国岡田之賀茂一随二山代河一下坐、葛野河与二賀茂河一所レ会立坐、見二-廻賀茂川一而言、雖二狭小一然石川清川在、仍号曰二石川瀬見小川一、自二彼川一上定二-坐久我国之北山基一、従二爾時一名曰二賀茂一也、 建角身命娶二丹波国神伊賀古夜日売一、生レ子、曰二玉依日子一、次曰二玉依日売一、於二石川瀬見小川一遊為時、丹塗矢自二川上一流下、乃取挿二-置床辺一、遂感孕生二男子一、至二成人時一、外祖父建角身命造二八尋屋一、堅二八戸扉一、醸二八腹酒一、而神集々而七日七夜楽遊、然与レ子語言、汝父将レ思人、令レ飲二此酒一、即挙二酒坏一向レ天為レ祭、分二穿屋甍一而升レ天、乃因二外祖父之名一、号二賀茂別雷命一、所謂丹塗矢者、乙訓郡社坐大雷命在、賀茂建角身命也、丹波神伊賀古夜日売也、玉依日売也、三柱神、在二蓼倉里一三井社坐也、妋玉依日子者、今賀茂県主遠祖也、其祭祀日乗レ馬矣、志貴島宮御宇天皇之御世、天下挙国、風吹雨零、爾時勅二卜部伊吉若日子一令レ卜、乃賀茂神祟也、撰二四月吉日一馬繋レ鈴、人蒙二猪影一而駈馳、以為二祭祀一、能令二祷祀一、因レ之五穀成熟、天下豊年、乗馬始二於此一也、
又云、初秦氏女子出二于葛野河一、澣二-濯衣裳一、時有二一矢一、自レ上流下、女子取レ之還来、刺二-置於戸上一、於レ是女子無レ夫懐妊、既而生二男子一也、父母怪レ之責問、爰女子答云、不レ知、再三詰問、雖レ経二日月一、遂云レ不レ知、父母以謂、雖レ然無レ夫而無二生レ子之理一也、我家往来近親眷族、隣里郷党之中、其夫応レ在、因レ茲弁二-備大饗一、招二-集諸人一、令二彼児執一レ盃、祖父母命云、父止思人爾可レ献レ之、于時此児不レ指二衆人一、仰観行指二戸上之矢一、即便為二雷公一、坼二-破屋棟一、升レ天而去、故鴨上社号二別雷神一、鴨下社号二御祖神一也、戸上矢者松尾大明神是也、是以秦氏奉二-祭三所大明神一、而鴨氏人為二秦氏之婿一也、秦氏為二受婿一以二鴨祭一譲与之、故今鴨氏為二禰宜一奉レ祭、此其縁也、鴨祭之日楓山之葵挿レ頭、当日早朝、松尾社司等令レ齎二挿頭料一、参二-候内蔵寮一、祭使既来、置二楓山葵於庭中一、詔戸申使等、各挿レ頭出立、禰宜祝等賜二禄物一、又走馬、近衛二人捧二謝幣一、与二禰宜祝一倶参二松尾神社一、是乃父母子愛之義、芬芳永存之心也、
右官史記云、天武天皇六年二月丙丁、令三山背国営二賀茂神宮一、
神祇令云、天神地祇、神祇官皆依二常典一祭之、義解云、天神謂二伊勢、山城鴨、住吉、出雲国造斎神等類一、
国史云、文武天皇二年三月、禁二山背国賀茂祭日会レ衆騎射一、 和銅四年四月詔、賀茂神祭日、自今以後、国司毎年親臨𢮦察焉、 神亀三年三月、衆人会集、一切禁断、 天平四年四月、任レ意祭レ之、 天応元年四月、令二賀茂神二社禰宜祝等始把笏一、
又或記云、延暦十二年癸酉、北野山中、天皇行幸、而諸臣却奉各去也、于時遣二大火一給、祈申、始奉二鴨上下両神大祭事一、率二供奉諸司一并奉二斎内親王一、
又説云、嵯峨天皇与二平城天皇一有レ隙不レ穆、于時嵯峨天皇祈祷有レ感、初奉二斎王一云々、
大同二年三月、従一位勲一等賀茂御祖神奉レ授二正一位一、
弘仁格云、太政官符、定二新置斎院司官位職員一事、長官一員、次官一員、判官一員、主典一員、右被二中納言兼左近衛大将従三位行春宮大夫陸奥出羽按察使藤原冬嗣宣一、奉レ 勅宜二依レ件定一弘仁九年五月九日、
弘仁神式云、凡四月中申酉祭二賀茂二社一、斎内親王向レ社、史一人、左右史生各一人、官掌一人向二祭所一、𢮦-二校諸事一、 山城国司預申二祭日一録レ状、少納言奏聞、差二勅使一令レ奉レ幣、并有二走馬一、事見二内蔵及左右馬寮式一、其日、宮門閤門前立レ仗守衛、前一日、大臣侍二殿上一召二諸衛府於殿前庭一、而仰二警固事一、後日解却亦准レ此、
弘仁内蔵式云、賀茂祭上社下社、松尾社社別禰宜祝各一人、上下両社、各物忌一人、云々、使等装束料云々、右当日平旦、内侍已下退出、於二寮庁前一与二使官人等一共解除、訖松尾社幣便附二禰宜祝等一、即使等再拝両段、退各就レ座、寮家供レ饌行レ酒乃発、山城国司率二騎兵等一、於二京外路一、前駈祗承、
国史云、弘仁十年三月、勅、山城国愛宕郡賀茂御祖并別雷二神之祭、宜レ准二中祀一、 承和十五年二月、正一位勲一等賀茂御祖大社禰宜外従五位下鴨県主広雄等款云、去天平勝宝二年十二月十四日、奉レ宛二御戸代田一町一、自レ爾以降、未レ被レ奉レ加、因レ茲年中用途乏少、望請准二別雷社一、加二-増御戸代田一町一、勅許レ之、
貞観主税式云、凡賀茂祭使食料稲四百束、以二山城国正税一宛之、
『本朝月令』・4月中酉賀茂祭事(奉河合神幣帛事)奉二河合神幣帛一事、
右件神社祭始之由、無二所見一、但依二天安二年八月七日太政官符一、預二大社一、又去延喜元年十二月廿八日太政官符偁、得二神祇官解一偁云々、件河合神、是御祖別雷両神之苗裔之神也、加レ之此神霊験顕然、貴賎帰仰、奉二大神幣帛一之時、先奉二此神一云云者、左大臣宣、奉 レ勅依レ請者、預二相嘗祭一云々者、
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